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2014-02-24

そこはかとなく、梅ほころび、春の気配を感じる朝

昨日は終日薪づくり
この数日でにわかに梅がほころびはじめたのを感じる。春が近づいている。年を重ねるに従って春の訪れが嬉しくなるが、農の仕事を始めてからの今年の春は、特別嬉しく感じる自分がいる。

この2カ月、現場での寒さを体感し続けていたので、それからのしばしの解放の季節がやってくるという、ただそれだけの理由で、私の心は軽くなるのである。仕事が終わると、しばらくは冬眠状態が続くといった塩梅の、私の例年の冬の暮らしにも生活の変化がやってくる。

本格的に動き出し始めるのは、やはり3月以降である。それが生き物の私には合っていて、動き回りたくなるのは、春夏秋といった具合。半年もじっとしていると、22年も企画してきた私は、何かが企画したくなるのは、自然なことなのだが、経済的なことがどうしても付きまとうし、スイッチが入るような塩梅までは、農の仕事に専心したいといった心持なのである。

わずか5か月前までは、農耕放棄地であったところが畑になり、少しずつではあるが、ネギが植えられ、そのネギが春の訪れとともに、どのように成長してゆくのかが、実に楽しみなのである。

それと、今年は9月に娘が結婚するという、家族にととっては大きな出来事があるので、私としては静かにその一大事を無事に見届けたいという、きわめて個人的な思いが強いのである。まして、22年間、エネルギーを放出しきって、出がらし状態の我が頭を静かに充電したいという気持ちもある。

これまでもそうだったが、何よりも内なる自然に任せる中で、心と体が発酵するようなことがあれば、近しい方々に考えを吐露し、事を進めてゆきたいといった煩悩は、いまだ止まない。

夢が原を辞して一年、何とはなしに新しい自己実現、これまでとは異なる生活がようやく本格的に始まる気配なのである。サンナンのA専務は、大きな夢を持っておられるし、専務の夢と重なり合う部分がとても多いので、お役にたてることなら、私の能力の範囲で、事をなしてゆきたいとの思いも強い。

ともあれ、そんなこんな、生きていることは、苦しきことのみ多かりきではあるが、面白い。つらくても生きていることに、面白さを感じ、見つけられるれる感性の持ち主が増えれば、世の中なにはなくとも、明るくなる。希望は、まずおのれの中にに持ちたいものである。感性は教えられない。

アフリカをはじめとする、いわゆる辺境の地とされる国々を、若いころわずかだがこの目で旅して感じたことは、物質文明に毒されていない、彼らの持つ、持たないものの豊かさという逆説である。私は彼らの豊かさに学び、あやかりたく、これまでずいぶんアフリカの国々の音楽を企画してきたが、かえすがえすも、身に余る、ある意味無謀な企画ではあったが、今言えることはやってよかったという一点に尽きる。

私が出会ったアフリカーナは、何よりも【今現在】を明るく生きていた。なにはなくとも、遠来の客を心から、いっぱいのお茶で温かくもてなし、何よりも歌と踊りで、感謝を示してくれた。その豊かさ、言葉がなかった。私がなくしそうになっていたものが、私がたまたま出会ったアフリカーナには、こぼれるほどにあったのだ。

その明るさは、どこから来るのか、そして今の日本を覆う、うつうつとした暗いニュースの多く(明るい話題ももちろんありますが)の原因はな辺にあるのか。八方ふさがり、一言でいえば、心がお金にからめとられている構造から、あまりにもぬけ出せないと思いこんでいるからではないかと、私には思える。

想像力と、知恵と、勇気の枯渇のひどさに、時折暗然とするが、救いも感じる。何故こういう状態が続くのかといった構造に、若い方々が気づき始めて、軟かな感性で動き始めているのを、あちらこちらで感じるのが救いだ。

おじさんとしては、そういう若い方々と連帯して、邪魔にならないように今しばらく自在したいと思う。







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