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2014-02-02

今朝はこのようなへんてこりんなブログになってしまいました

以前も書いた気がしますが、敗戦後アメリカによる占領政策が終わり、再び独立日本国となった、1952年に生まれた私にとって、この今も続くこの間の歴史的時間といいますか、時の流れに、時折意味もなく茫然とすることがあります。栄枯盛衰。

今という渦中にいて、日々めまぐるしく起きては流れゆくあらゆる事象に、どこか冷めた目で眺めてしまうかのような感覚が、年を積むともに深まってゆく、無常観的塩梅。世の移り変わり、自分も含めての、ヒトの心の有為転変は、いかんともしがたく為すすべがなきかのような。

自分自身でも判然としないが、身体全部で何かが呼ぶ感覚に、耳を傾け続けてゆくこと、くらいにしか今は書くことができないが、あきらめてはいない。退職し、本格的に新たな仕事に関わり、娘が結婚するという個人的にいろんなことが変化してゆく、節目の年。

このようなな年は、じっくり落ち着いて、世の流れにアンテナは立てながらも、静謐な暮らしを心懸けたいと、思っている。若いころから、浮足立ち自分自身に何度も絶望しかけたのだが、その都度いろんな方や、眼に見えない何かに助けられながら、自分自身に絶望する愚かさを一日でも先延ばししながら、自分の中に希望を持ち続けることを、生きがいにしてなんとか歩んできた。

そのことは今に至るも変わらない。変わらない日々の営みあればこそ、今もこうやって元気にブログを書いているのだと思う。いきなり話は夢のお話、以前は夢を見てもすぐに忘れていたが、最近夢を以前よりよく見るようになってきている。起きてもしばらくは記憶していたりして、妻に見た夢の話をしたりすることもある。

シェイクスピアに、私が惹かれる理由はたくさんあるのだが、夢についての記述が多いこともそのひとつである。寝ている間に見る夢も夢だが、意識が起きている間にも、人間は空想し夢を見る生き物であると思う。私など夢を見る力がなかったら、とうの昔にこの世におさらばしていたかもしれない。

他愛もない夢を紡ぐ癖のようなものを、自分の中に育てる営為をかすかに続ける中で、いろんな国ぐにを旅したり、企画の夢を実現することができた。そして、今またささやかにこれまでとは異なる、農の世界で、土まみれになりながら、希望エネルギーの夢を地味に見つけてゆく自分が育ってきている。

自分自身の中の閉塞感は、先人たちを見習って、これまでも自分で破ってきた。健康で元気であれば、人間の可能性(小さき幸せ)はいいたるところに発見できる。世の中の流れは、悲観的な相貌をみせ続けようとも、自分まで世の中の流れに身を任せる愚は、ごめんである。

世の片隅で、じっと春を待つ名もなき草花のように、そっと生を全うすることこそ肝要なことであると最近私は考える。イデオロギーも宗教も、人間界とは無縁の豊かな大いなるものに抱かれて。

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