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2014-02-17

岡さん、生誕のお祝いの言葉、誠にありがとう存じました。

私の生誕の翌日に書いたブログに久しぶりに、岡さんからコメントを頂きました。実名で時折コメントをくださる岡さん、他愛もない個人的五十鈴川だよりを、きちんと読んでくださるありがたき方が、おられるということ、とてもうれしく思います。それもお顔が分かっている方からの。

私のブログは、ほとんどコメントがなく、たまにあってもほとんど匿名なので、岡さんのように実名でのコメントは、やはりとてもうれしいのです。顔が見える程度のお付き合いが、私は世界のすべてだと思っているので、落ち着いて読めなくなってしまうくらい(そんなことはあり得ないのですが)万が一コメントがきたら、ブログを書くことはやめるのではないかという気がいたします。

そういう意味では、今くらいのペースでたんたんと書きつづれる自己慰安、五十鈴川だより、がいいですね。一人の方のコメントに対しての返信が、そのほかの方にも読んでもらえるような、文章がつづれるようになれたらなあ、という気がささやかにいたします。

いろり通信の時にも書いたのですが、人間は考える葦である、揺れながらも根を張る努力を続ける。世の中に出て才能なんて全くなく、ひたすら自分の感覚を頼りに生きてきました。自分を信じる力をつける、自分という器で歩いてゆくしかない。

そんな心持にたどり着いてからの(富良野塾を卒塾してから)私は、自分なりの平凡をよりどころに、今も生きています。一見激変する世の中の推移とは別に、その渦を遠くに見ながら、ささやかな自分が見つけた居場所でいきる。

このようなことを書くと、62歳にして何か達観しているかのような誤解を生むといけません。他の方はいざ知らず、私自身初めて62歳になったばかり、相変わらずいろんな出来事にアンテナの関心は動き、心は千路に乱れます。特に自分の無知さに関しては、時折ため息が出ます。

でもまあささやかに、希望の側に軸足を置く。私の好きな黒沢明監督の言葉に、【人間は前に向かってしか歩けない】
というのがあります。監督は人間の善と悪(偉大な文学や芸術はすべてそれを描いている)を見つめ続け、時代時代の渦中で作品化していますが、気分がすぐれない時には、監督の作品を見ると元気が湧いてきます。

この世とおさらばするまで、爪の垢でもあやかりたいものです。監督が遺した素晴らしい言葉を、娘の和子さんが書いておられます。宝石のような言葉ばかりですが、もうひとつだけ書きます。【恥を書いてもいからずかずか踏み込むんだ】

無知蒙昧の私、今に至るもどれだけ恥を書いて生きてきたか分かりません。世の中に出たばかりのころ、演劇学校で、とある偉い先生(今はそう思っていません)に満座の中で恥をかかされた経験があります。でもまあ、命を取られることはないのです、娘たちにも話すのですが、つまずき痛い思いをすることの中から、しっかりと何かをつかんで離さないように、身につけてゆく、そのことが肝要だと。

岡さん、お祝いのお言葉しかと受け止めました。母は命がけで私を生み、母乳があまり出なくて苦労をしたそうです。父のことは少し書いていますが、母のことは又書けるときに折々書きたく思っています。怖い父、優しい母に私は育てられました。瞼の両親です。

私の体は、私だけのものではない。



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