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2014-02-10

東京都知事の選挙結果に思う

今朝の新聞の一面は、東京都の選挙結果である。もう間もなく福島原発事故から、3年を迎えようとしているが、この結果に関しては、予想通りなので私自身はこれが現実だと受け止めている。

私の生活の範囲で出会う人で、原発や核問題に関して、我がことのように受け止めて話をする人は皆無である。かくいう私も、皮膚感覚でとらえているかという次元まで、問題を深く真摯に考えているかというと、やはり頭でしか考えられないという、想像力的範疇での限界を生きている。

一票の重み、大人、個人に与えられている権利を放棄し、選挙に行かないヒトの唖然とする多さ、もっといえば、成熟した大人の(いろんな考えがあっていい)なんと少なくなってしまった、国民の多さには、いささか暗然とする。

ドイツでは核や原発に関して、国民の意識が以前から高かったので、福島の原発事故が起きた時に、国民の総意であっという間に脱原発に向かったといういきさつを知った。チェルノブイリからの放射能の雨はヨーロッパ全土に及んでも、国民がいろんな問題を我がことのようにある種受け止め考える力、感覚を、忘れず持続し続けていたからだろうと思う。

日本をはじめとする多くのいわゆる先進国(何を指して先進国、というのかにも私はかなりの疑問を持っている)は、いまだ経済優先で、核のゴミの処理施設もないのに、この奇跡の惑星を、汚染し続ける。このことに関して、何の痛みも伴わない感覚の持ち主たちが、駆け引きしながら、まあ、世界を動かし続けている、といった構図が透けて見える。

無知蒙昧、一庶民の私のささやかな認識である。経済音痴の私にはまったく理解ができないが、株価の上下に一喜一憂、豪奢なビルや一部の広大な大邸宅が、存在しても私個人は、関係ないが、意味なく突然他者の生活を脅かしたり、このかけがえのない惑星を汚染し、末代まで生き物の安全、生命(命がこんなに軽んぜられるとは)を脅かす、核物質を生みだす原子力発電を、個人的に私は受け入れることはできない。

なにはなくとも、世界は命があってこそ、感じとれるものでしかない。それは地球上に今存在する全人類にあまねく与えられている。70億分の一、私もその一人である。

以前も書いたが、私の苦手な言葉に仕方がない、という言葉がある。仕方がないとは、考えることを放棄するということと同義である。こういう人が増えれば増えるほど、選挙に行かない人も増えるのは、道理である。

感謝しありがたいと骨身にしみて感じる世代が、年々減るにしたがって、選挙に行かない人たちが増えてゆくよな気が個人的にする。無力感仕方ない感覚が全身に行き渡る。支配者にとってこれほどありがたいことはないのではないかという気がする。

私は政治的なことにはできるだけ遠く、特定の思想信条は持たない、きわめてノンシャランな生き方をしている、一庶民にすぎない。だが繰り返すが、理不尽、不条理に思えることに関しては、一個人として、ブログを通じてでも発言してゆきたい。

万が一起きてしまったら、制御しきれないお化けのおような原発に頼るより、ささやかでも安全なエネルギーが津々浦々にあふれるような国づくりを目指した方が、単純に楽しいではないかと、浅薄な私は考える。複雑に文章を書いたり、難しく物事を考えたりする愚は、そろそろもう卒業したい。

単純に愚直に考え行動する。時間が来たので今朝のブログは終了。今日はこれから山陽カルチャープラザで、素敵な今を生きる女性と二人で、静かにシェイクスピアの冬物語を読む。



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