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2014-02-20

若者たちには、自分の足で世界の地面をあるいてほしい。

昨日のブログで書いガーナという国に行ったことはないが、西アフリカのギニアとセネガルにはわずかだが行ったことがある。

アフリカに関する記事が新聞に載ると私の眼は自然とそこに目が行く。もちろん西アフリカだけではなく、過去に行ったことがある国のことで、印象に残った国の記事には必ず眼が行く。

私が今の日本の時代状況に、どこか冷めた感覚をなんとか持続できているのは、若いころに、やはりいろんな国を、旅してきたからだろうなあと、感じる。日本以外の国では全く通じない世界の多様な真実の匂い。異なる歴史、土壌に咲いた文化、言葉。

どんな小さな国の、ささやかな暮らしであれ、みんなそこが世界の中心であり、そこから昇る朝日を眺め、星空を眺め、煮炊きをし、家族とともに暮らしているのである。なにはなくとも地に足のついた暮らし。

だからということもないのだが、おじさんとしてはやはり若い感受性があるうちに、どこか日本語が聞こえてこないようなところを、体一つで旅する時間というものを持つことを、薦めたい。

無理をすることはないのだが、うつうつと何か判然としない、内的鬱屈が続くようであれば、しばし生活の軸足を変えてみるささやかな冒険を、と思うのだ。航空運賃以外、ほとんどの国は物価が安いので、一年くらい必死で節約生活すれば可能だ。

節約生活している間に、行く先を決める。こういうことは、家族を持ってからでは遅いからである。話は変わる。私の娘が選んだ伴侶は、ドイツはドレスデンの男性だ。

彼にとっては異国である日本の女性と結婚するという選択がどういうことであるのかは、私にはコメントのしようもないのだが、ともあれ若い時から果敢に異国に勉強をしにやってきた彼の、生き方をほんのわずかだが、接していて思うのは、考え方が論理的で、簡単にいえばしっかりしているのである。

親としては、娘が選んだ機縁を、今はただ心から祝福し、どんな人にも訪れる人生の困難を、二人で乗り切ってほしいと願うしかない。

人間はおそらく太古から移動し、混血を繰り返してきたのに違いない。私を含めて日本人は狭い(本当は広い)島国感覚でややもすると、視野狭窄的感覚に陥りやすい。外見はともかく、内的に、いい意味ではなく、引っ込みがちになり、いまだ集団性行動に収斂してゆく傾向が強い、と私には思える。

根回しが好きで、会議の前にはすべてが決まっていたりとか、ともかく先回りしてでも、不安を取り除いて、ことを為そうとしがちだ。もちろんそんな人ばかりではないから、救われるのだが。

こんなことを、急に書く気になったのは、先週から遊声塾に、27歳の悩める若者(私が文学座を受けた年齢、私も悩んでいました)入ってきたからなのです。

結論から書けば、人間はおそらく一生悩み続けるのですが、若いころに精神に心地よい風穴を開けておくと、日本的な湿った情況に置かれても、世界の風が、心を軽くしてくれる。そのように私は思います。

歩きやすい、い心地のいいところばかりではなく、歩きにくいところをこそ、若いうちに踏みしだいて、世界の強風を浴びておけば、少々のことではへこたれない精神力が身につくはずです。しかしそのようなことを経験していない大多数の大人に育てられた今の若者に、私はどちらかといえば同情しています。

娘の婚約者はそういう意味では、私の眼にはタフな若者に思えます。ドイツと日本と何が違うのか、どちらも敗戦国からやり直した国同士。この目で、これからゆっくり学びたく思います。

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