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2013-03-07

心から富良野塾1期生でよかったと思えた3月3日の夜


私は自分が、倉本聰さん(以下先生)が創立された富良野塾(すでに閉塾している)の1期生であることをこのブログでも書いた記憶がないし、岡山に移住してからも、訊かれたときにしか、はいそうですと答えたことはない。

 

今から30年前、31歳から足かけ3年間34歳まで、私は北海道の富良野で過した。北の国からのロケ地の近くの原野で、現代人としては極めて珍しい経験をした。そのことに関しては先生が・谷は眠っていたという・本に書いている。

 

冬はマイナス30度以下になる、富良野の冬の過酷さの中、ゼロから一期生は塾舎を創り、春から秋は生活費を稼ぐために、片道400メートルもある、たまねぎ畑やニンジン畑に

這いつくばった。(我ながらよくやったと、今心から思う)

 

あんなにひ弱かった私が、その後いくばくか強くなれた(自信がついた)のは、あの3シーズンの生活の中で肉体も精神も鍛えられたからに他ならないとの確信が、私の中にある。

 

私が富良野での生活に関して、いまだあまり何も書いていないかというと、卒塾してから現在の妻と巡り合い、お互い子供に恵まれ、家族がで、子育て新生活を夢中で生きてきたからに他ならない。特に岡山に越してからは、それまで学んできたことを活かしての、中世夢が原での、仕事に集中してきたからだと、思う。

 

ところで、先週日曜日、3月3日、播州赤穂まで、先生の・明日悲別で・という演劇を本当に久しぶりに見に出かけた。卒塾してから観た先生の舞台で、最も感銘を受けた。一歩間違えば余りにも取り返しがつかない、われわれの危うい科学技術過信文明生活の黙示録的な舞台。(内容に関しては、短い文章では書けない)

 

若い後輩たちが、みずみずしい生身の躍動感あふるる身体で、先生の今の思いを舞台上に具現化していた。私が素直に感動したのは、78歳の先生の演出の若さである。舞台でしかできない表現をフルに使い、端々に人間という存在にたいする愛情が先生らしい言葉であふれ、それは絶望的情況の中での希望というしかない、渾身の舞台表現に集約されていた。

 

この舞台では、フクシマ(歴史上初めて生きものが住めないエリアが我が国にできた)の終わらない人災原発事故災害が(悲別からフクシマに移民し働く登場人物から)叫ばれる(世界の資本主義社会の行き着く先)。

 

この眼に見えない恐怖に関して、先生は人一倍敏感だ。棄民という言葉、今や全世界の人類がいつ棄民になってもおかしくはない、時代を共有している。そのことを先生は激しく問いかける。忘れっぽい日本人の一人として自戒する、ひとりひとりが今ほど考えないといけない時代はないのではないかと思う。頭ではなく身体で。

 

話は変わるが、舞台を見終えて一番先に思ったことは、富良野塾に1期生として参加できて心からよかった思えたことだ。本当に久しぶり、先生にもお会いすることができ、御挨拶ができた。人生いまだ途上だが、ある程度歳を重ねないとわからないことがある。

 

暗い曲がりくねった道を赤穂から、西大寺まで車で帰りながら、富良野での遅まきの青春生活を私は思い出していた。

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