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2013-01-12

2013年、年頭に思う


色づき始めた我が家のはっさく


いきなりこんなことを書くと私らしくないような気もするのだが、というのは亡き父は小学生の私に、この世に神はいないなんてことを、平気で口にするような父親でした。神社、仏閣にはお正月でもほとんど詣でることをしなかったので、いまだに私の中でのくっきりとした実感的神の存在というのは、希薄である。だからと言って私は父のようには神の存在を口に出して否定することは出来ない。


年齢を重ねるにつけて私の中に、手を合わせるという行為は一人の時に随分するようになってきた。特に朝日が昇ってくるときに、この21年間で何回手を合わせたことだろう。朝が早い私は、今も太陽の出現に、一日が始まるという思いの中で、祈る自分がいる。快晴の朝、徐々に光がさしてきて、光線が自分自身の身体が、射すように貫くと、寒い朝でもなんとも形容しがたい思いにとらわれるのである。


2013年、たんなる語呂合わせに過ぎないのだが、私の誕生日は2月13日である。4月からの完全フリーター生活を前に、何がしかの縁起を担ぎたくなる私としては、これ以上には望めない、気持ちのいい数字の歳の再出発になるという、極めて自分勝手な思いに満たされる。娘の婚約だって、私の預かり知らないところで、すべてのことは進行してゆき、吉報の年明けとなったことも、何やら幸せだ。


人生は思い通りにはならないけれども、この大いなる世界に生かされているものとして、忘れてはならないことはいろいろあるとは思うけれど、祈りながら謙虚に学び努力するという行為無くしては、決して得られないことは、どのような時代に生まれようとも、厳しい哲理ではないかと思う最近の私である。


人間は考える葦である、という永遠の真実を前に、ようやく少しだけ、このような心境に至った還暦おじさんの私だけれど、いまだ道は遠く、心して歩まねばならない、という思いがますますましてきている。


哲学的謎は、謎だから素晴らしいと思うしかない、という思いにとらわれる。ヒトは幸せな時に笑みがこぼれる。笑みがこぼれないような、人生は誰も望まないだろう。だから先人は笑う門にはとか、ありとあらゆる縁起かつぎのささやかな儀式を、季節の移り変わりの中で、あちらこちらに張り巡らしたのであろう。


ともあれ、論旨にまとまりのない朝ブログになったが、いずれにせよ本年は43年間の過ぎし来しかたを振り返り、これからの人生を見据える一年にしたいと、年頭に当たり考えている。


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