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2022-09-24

お休みの日、これからの時候のいい秋の季節は、暫し集中して佐藤優氏の著作を、丁寧に読む時間を大事にしたい。



 えもいわれぬ初秋の朝、徐々に外がしらみ始めるこの時間帯が無性に好きなことは、もう度々五十鈴川だよりに打っているが、きっとこれから先も何度も打つに違いないので、平にご容赦願いたい。暑くもなく寒くなく、ちょうどいい塩梅のこの季節の気持ち良さは、あの暑い夏を潜り抜けたからこその喜びであるのには、違いない。

さて今日は、3連休の中日の土曜日である。先週に続いて3連休が2回もやって来るのが、私としては嬉しい。昨日は今は書斎としてはほとんど使っていない、部屋の整理や片付けにほぼ半日を費やし、自分としてはかなり片付けたつもりなのだが、ぱっと見にはたいして片付いたようには見えない部屋で過ごした。

講義を受けたいと切に思う

たいして片付いてはいない、過ぎし日の写真や古い手紙などを整理してみいっていると、瞬く間に時間が過ぎてしまうからである。私のように空想癖があり、物思いに耽りがちな輩はきっと整理整頓には向かないのだと、諦める他はないのかもしれない。思いでの本や、手紙などはどうしても捨てられないので、古希を境にというわけではないのだが、新しく買うのは、よほどのコとがない限り勤めて買わないようにしようとは思っているのだが、やはりどうしても増えてしまうのは、もう仕方ないと諦めている。

どうしても捨てられないものに、取り囲まれながら、思い出に包まれながら、静かに生活しタイのだ。だから、遺す遺産はなにもない私だが、娘に私が成仏したら、思いでの品の数々の遺品をきれいに処分して困らない程度のお金だけは残しておきたい。が生きている間は、思い出の捨てられない品々と共に、暮らしたいのである。

塵も積もれば山という言葉があるが、真実である。今でさえ、書評を読んだりして老いの手慰みではないが、ノートに貼り付けたりしているのだから、大した量ではなくても、いつのまにやら数十冊もたまっていてお慰みである。でもいいではないかと、自分を慰めるのである。この年齢にしてようやく自分にとっての気持ちのいい自足自在時間が過ごせる部屋が2つもあるのだから、と。

どなたかに迷惑をかけるわけでもないし、その事は長女には伝えて了承を得ているし、私としては毎年、年を重ねながら、少しずつお別れできる品々を減らしつつ、2つの部屋が本や物で圧迫感がないくらいにはとどめるつもりである。(いうはやすしではあれ自戒するのだ)

さて、いきなりすっかり涼しくなり、まさに読書の秋来たりという感じで、お休みの日は、平日読めない分、集中して本を読んでいる。読みたい本が次々と現れる。学ぶ本、息抜きの本、様々だが、日々なにがしかの知的刺激を老いゆく体に注入するには、言葉の息づかいが聞こえてくるかのような、書物に出会えるのは至福である。

この十数年、該博な知的巨人、インテリジェンスの知性に満ち、私の遠く及ばない無知の分野のあれやこれやを教えてくださる、佐藤優氏の御本を(難しくても読む)できるだけこの秋は集中して読んでいる。読む前と読んだあとでは、なにかが変わる。へーット刺激をいただくのである。謙虚に知る。懐疑的に知る。難解な哲学書から、漫画やテレビドラマまで読み込み、時代のいまの、刻々と推移する時代情況を分析する、知的眼力には敬服する。

このような人間がいまの日本に存在することに、どこかで無知蒙昧の私は安堵する。

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