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2022-09-18

超大型台風が近づいて来ている。一人ものおもう朝の五十鈴川だより。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 3連休ではあるが、超大型の台風が近づいていている。したがって静かに生活している。このままの勢力をキープしながら西日本に近づいてきたら、きっと大変な災害をもたらすのではと心中穏やかではない、まれな超大型台風である。

九州全域、我がふるさと宮崎も今日からか直撃を受けそうなので心配なのである。停電他に備えて、最低の家の回りの片付けなどを午前中には済ませるつもりである。お陰さまでという他はないが、この年齢まで大きな災害を体験することもなく、生きてこれたことには感謝しかない。だが、この異常気象都とでも言うしかない、この4ー5年の集中豪雨での各地の災害の悲惨極まる映像は、とてもではないが他人事ではない。

思考する時間を大事にいきる

やれるだけのことはやって、台風が過ぎ去るのをまつほかはない。外出は避けて、食料品も数日間分は買っておこうとおもう。小さい頃台風のすごさを体験しているので、宮崎人としては、この度の台風の規模は、ちょっと想像できない。岡山は九州エリアと違って災害が少ないと言われているが、真備町での悲惨さは記憶に新しいし、こればかりは予想もつかない。だから、やれる範囲の備えをして通りすぎるのを静かに待ちたい。

話を変える。妻が娘たちのところに出掛けている。水曜日から4日間ほど独身生活をしている。妻がいなくても、家事他なんとかこなしている。近所に住む高齢の母のことも含め、なにかとやることが多く、そのことがいい自律緊張感をいやでももたらす。すべては前向きに事を為すのだ。一日の終わり、床につき、今日もなんとか一日がつつがなく過ごせたことに、どこかで安堵する自分がいる。

台風が過ぎ去る頃には、妻が帰ってくる。わずか8日間の妻の不在は、妻の存在感のいちいちの普段は感じないすごさを改めて知る。だから偶さかの妻の不在は、私にはいい薬なのである。【おたがいに・自律してこそ・老後かな】ってな塩梅で私はゆきたいのである。

ふたたび話を変える。還暦を迎えたときには、古希の自分などまるで想像できなかったし、60代をいかに生きるかといったことに、かなり執着し、五十鈴川だよりをうちながら日々を送ってきた。そして、10年という歳月の重みを改めて感じている。この間の家族の変容は、言葉に余る。昨日妻から送られてきた、男の子二人の孫の動画に、時の流れの重さを、ひしひしと感じ、そして打たれたのである。よちよちあるく孫の姿、ブランコで幸せに揺れる孫の姿に。平凡な生活を送れることの言葉にならないありがたさ。

何度も打っているし、たぶんこれからも何度も打つであろうが、これからの先の70代をいかに生きてゆけばいいのかを、五十鈴川だよりをうちながら、どこかでなにかを手放し、諦めながら静かに生活をしたいという、明らかに老いて行きつつある自分を、還暦のときよりもずっと感じながら生活している。だがそれを言葉にするのは難しい。

あえて言葉にするなら、どう転ぶにせよ70代をひとつの元気なうちの集大成のような時間の過ごし方が、できないものかと考えているのである。このようなことを打つとどこか悲観的に思われるかたがいるかもしれないが、私はそうは考えない。死をできる限り身近に感じながら、70代をいかにいきられるのか、いきられないのかを、可能な範囲で、五十鈴川だよりをうちながらささやかにいきたいのである。無理をするのではなく、どこか楽しみながら面白く挑戦したいのである。

確実に死はやって来る。ある日突然に。60代の時より、死を身近に感じながらの生を送るための羅針盤として、一日でも長く家族の行く末、孫たちの成長を見守りながら生活できれば、自ずと己の老い行く時間が、まあ、カッコつければ意味をもつかも、と思うのである。


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