ページ

2019-08-10

2019年8月8日、富島高等学校甲子園初出場観戦記、五十鈴川だより。

五十鈴川への帰省往還、一昨日の富島高等学校の日帰り応援、アルバイト、塾等々の充実した忙しさが、この真夏の暑さの中続いたせいか、昨夜は倒れこむように寝て、一度目が覚めたが、再び眠り込み、起きる時間を気にせず先ほど起きた。今日は土曜日である。

さて、新鮮なうちに甲子園3塁側アルプス席での、富島高等学校甲子園初出場応援感想記を、ささやかに五十鈴川だよりに書いておこう。神戸の三宮でゆっくりと昼食を取り、そこから阪神電車で甲子園へ。着いたのが午後3時過ぎ、3塁側は前の試合の国学院久我山高校の応援団でぎっしりと埋まっていた。

試合が終わり、わずか20分くらいで速やかに応援席が入れ替わり、母校富島高等学校のブラスバンドをはじめとする、高校生の応援団、部の関係者、父兄他、縁者がやってきた。私もネットの近くまで席を移動、卒業して半世紀、ブルーの応援ユニフォームの後輩たちの姿に、初老男の胸が揺れた。

富島ブルーに埋め尽くされた応援席

この瞬間に立ち会えたこと、ここまで初老男を運んでこさせた、富島高等学校野球部後輩たちに胸の中で感謝した。試合前ブラスバンドが母校の校歌を演奏、応援団が歌った。半世紀ぶりに聴いたのだが、にわかにメロディが記憶の底から蘇ってきた。

まったくふらふら軟派時代の、自分の悩み多き富島高等学校時代の高校生活が、次々と思い出され、切なさに、これは夢ではないのかと、白昼夢を観ているような気分になったのだが、夢ではなかった。

それから、試合が終わるまで球児たちの勇躍する姿(敦賀北の選手も素晴らしかった)を、甲子園球場全体の臨場感の中で、私は堪能した。もちろんはじめて出会った隣の青年は、仕事で宮崎に行ったことがあって、宮崎の応援に来ましたと話しかけてきた。私の母校ですと答えると、それはうれしいでしょうと何かと親切にしてくれた。

ネットにへばりついて、小学生の男の子とお母さんが熱心に観戦していた。平日であり私のような一般人の応援人数は少なかったが、私も含めきっと何かゆかりの方々が、まるで疑似家族になったかのように熱心に応援していた。一球一球に一喜一憂し、スタンドに声が響き、ため息が漏れる。

攻撃の回ごとに、応援ブラスバンドは歌を唄いベンチに入れない一年生二年生の野球部の部員が、この暑さの中ジャンプして声をからす、青春というしかない。高校生のチアガール、卒業生だろう、若い女性の即席チアガールもいた。こうまで無心に熱くなれる、郷土へのおもいとは何なのであろうか。

回も終盤、7回ころ私より若い50代くらいの一人の男性が、応援にやってきた8回まで静かに観戦していたのだが、9回いきなり野球は9回からだと雄たけびを上げた、9回もツーアウト再び雄たけび、野球はツウ―アウトからだ、と。(男性は乃木坂48のTシャツを着ていた)
応援席にあいさつに来たナイン

男の方の雄たけびは、富島高等学校の応援に駆け付けたすべての胸の内を代弁していた。試合は終わった。ナインが応援団席にやってきた。男性は三度雄たけびを上げた、富島高等学校野球部ありがとうと胎の底から夏の空に向かって声を放った。感動した。私もまったく同じ気持ちだった。誰もがみんなすがすがしくナインに労いの言葉を送っていた。

青春の光と影、勝者と敗者とは?つながっていて分けられないのだ。この歳になると想うのだ、夢中になる、生れるということの何というかけがえのなさを。勝者にのみスポットが当たりがちだが、敗者あっての勝負事。ヒトはやがて勝者も敗者もない世界へと向かう。球児たちが初老男にいろんな想像する力を与えてくれた。すがすがしい思いで私は夕闇迫る甲子園を後にした。

とまれ、幻想的なまでに熱き思いに導かれて甲子園の大応援団と共にスタンドで観戦できた8月8日の喜びを、ささやかに五十鈴川だよりに書いておく。




0 件のコメント:

コメントを投稿