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2016-02-08

畑にすべくつるはしを振り下ろし、運動公園で声をだす。

4月3日の個人的な発表会を決断したためもあるとは思うが、以前より頻度が増して時間を見つけて運動公園にゆく回数が、意識的に増えてきた。

入場無料とはいえ、人前に自分をさらして何かを見て聞いていただくためには、それなりに修養し自分なりの稽古をしないとという気に、臆病な私はどうしてもなる。

やれば、それなりに何かが裡に起こる。それが生きている手ごたえだ。竹韻庵で竹をうがすのも本質的には似ているが、やはりちょっと似て非なるものである。

竹韻庵で体を動かすことと、シェイクスピアを声に出して読むことは私の中では連動している。おそらく何らかのアクシデントが起きない限り、ある一定の時間つるはしを振り下ろせる間は、声が出せるのではないかという気が私はしている。

ある一定の時間声を出したら、鉄棒にぶら下がったりほかの体の動きをして息を整えてから、また声を出すことを、3ラウンドくらいやるとほどほどの時間になる。

まだ寒いし、喉のこともあるのでそう無理はしないことにしている。体が冷えていて全然調子が出ないことが多いのだが、ともかく続けることが肝心と自分に言い聞かせる。

心身の状態が如実に声に顕れるのがわかる。いかに自分の状態を上げてゆくかが思案のしどころである。これはつるはしを振り下ろすときにも言えることだ。

無理をしてはいけないとはおもうのだが、ついついやってしまうというところがないとないと駄目ではないかとも私は思う。絶対矛盾稽古が私にはとくに今必要だ。

若い時と違って、このような自主稽古は徐々に徐々にそうはできなくなることが自覚できているからである。だから貴重な時間なのである。

やがてはできなくなることが、今ならできる。そのことに対して意識的でありたいと願うのだ。歳を重ねるとお金では買えない多様な世界があることに、ようようにして気づいてくる。

そこにこそ、晩年時間の醍醐味があるのではという気さえして、以前にもまして日々の趣が増してきているかのようにさえ感じてしまう。あるいは錯覚かもしれないにせよ。

時代についてゆき難き昭和男子としては、地面の上で心身のコンディションを量りながら、世の片隅でそっと自分の存在を確認しながら、畑を耕し自分を耕すのである。

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