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2016-02-23

竹韻庵で初めて育てたブロッコリーを一個収穫し想う。

約4か月かかって漸くブロッコリーが収穫できるくらいの大きさに育ってきた。とりあえずいま竹韻庵で育てている野菜は土ができていない小さな畑に、開墾ばかりではさみしいので植えたものばかりなのだが、それなりに育ってきている。

一番数が多いのは玉ねぎ、チシャトウ、つぎがブロッコリー、九条ネギ、 そらまめ、それとキャベツと、セロリとイチゴが各5苗である。玉ねぎとチシャトウ、以外は初めて植えたものである。

竹韻庵にゆきだしておおよそ7ヶ月、あと5ヶ月で一年である。自分でもこんなに早く収穫の喜びに浸れるとは思いもしなかった。

天然で冬野菜はかなりできることがわかった。問題は、すべての自然が活性化するこれから、夏から秋にかけての野菜がどのように育ってゆくのかが、不安でありまた楽しみというところである。

何かを植えると竹韻庵の風景が変わる。耕すとまた少し変化する。私自身も季節の中でかすかに移ろい、目には見えずとも何かが変化する。

季節の微妙な移ろいを何か体感しながら、そこに自分がただ在るということに対していいしれぬ穏やかさが私を包む。

なにかにあやかる、与えられているとでもいった感覚が育ってくるような気がいま私はしている。その感覚はやはり、おのれの肉体を全部注ぎ込まないとなかなかに育まれてこないのかも 、という気がする。

ともあれ、いよいよこれから本格的に晩年を生きるための喜びとしての超ミニ畑ライフを 非力なあたまと体で挑んでゆきたいと考える私であるが、さてどうなりますか、スリリングである。

S氏も私のブログにコメントをくださっているが、土や風に触れる暮らしが幼年期の私の原体験なので、いきおい私はどうしても原風景の中につつまれて晩年ライフを送りたいのは致し方のないことだと受け止めている。

電子ライフと、土ライフ、アナログとデジタルの共存のバランスがかなめである。機器には血がないが必要、私という臓器は隅々までが命の器である。

そのかけがえのない命を、確認できるのは人間が創ったと都市ではなく、人間がやってくる前からあった、この惑星の大自然である。そこに私は帰依するのである。

ああ、今朝もまたまったく予期しなかった五十鈴川だよりになってしまったが、森羅万象の命の移ろいに耳を澄ますためには、今や竹韻庵は私の体の一部になりつつある。

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