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2016-02-01

日々の暮らしの時間を可能な限り意識的に過ごせたら。

今日から2月である。なんだかずいぶん竹韻庵に行っていない気がするので今日はちょっとでもいいから、午後野菜の成長の具合も眺めがてらいくつもりである。

何はなくとも、日々の暮らしの中で心が落ち着く場所が、家のほかにもう一つあるということは実に在り難いことである。土を耕し精神に風をいれる。

竹韻庵で週に何回か意味もなく土と触れ合いながら時を過ごすというのは、これ以上は望めないほどに精神のよりどころとしては欠かせなくなりつつある。

要はすべてはバランスなのであるということを、私の場合は思い知る最近だ。日々どこか往還を繰り返しながら、迷い彷徨い苦楽をあきらめないとでもいうか、単なる自己満足にせよ。

ところで、言葉を繰り返し発することで人間の脳は言葉を記憶する。今年は今現在の体に、否応なく30数年ぶり言葉を記憶しなければならないことになりそうである。

日々忘れながらも言葉を記憶してゆくという、絶対矛盾的営為の上に表現行為をするのである。やるのかやらないのか、やると決めたら 当たって砕けるしかない。

おそらく若い時の何倍もの時間がかかるだろうが、自分の脳の不思議を感じながら言葉を入れてゆく時間をいまは可能な限り楽しめたらと考えている。

ところで話はいきなり変わる。昨日兄からの知らせで、母の妹が亡くなった。93歳、大往生である。昨年暮れには叔父が亡くなり次々に身内の訃報が続く。

すべて寿命なのだから、遠方から冥福を祈るだけである。命の不思議をひたすら寿ぎたいという、つまりは祈りのような感覚が私の中で、ゆるやかに緩やかに増しつつある。

老いてゆくにしたがって 、若い時には感じなかった感覚が、目覚めてくるというのもまた、老いの功徳かもしれない。

血の流れが悪くなり疲れやすく、反射神経や、足が上がらなくなったり、あらゆる動作が緩慢になってゆくにもかかわらず、ゆっくり気づく感覚は深まってゆくかのような。(あるいは錯覚かもしれないが)

とここまで書いて、ブログは中止。言葉を発する時間、時は有限である。






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