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2012-12-11

選挙が近づいてきた師走の朝に思う

近所の方から頂いたゆず

選挙権というものが与えられてから、私は日本にいないときを除いて一応ほとんど絶望的な気分になりがちになりながらも、選挙には欠かさず、行ってきた。これは亡き父がやはり、ほとんど同じような感じではなかったと想像するが、投票にゆくことを欠かさなかったからである。

 

今更のこともないのだが、女性に選挙資格が与えられた歴史一つとっても、何と多くの艱難辛苦の上に、成ったことかをかろうじて私はしっている。今となっては当たり前のように享受できることが過去にはいかに大変で難しかったのかという様々な事柄を。

 

私も含めて、いかに我々という存在は忘れやすく、安きに流されてしまうのかということを知ると、冬空の下いささか茫然としてしまう私である。がしかし、哀しい事なれども歴史は繰り返すということもあるのかもしれないが、その繰り返しの中でも、人類は緩やかに、螺旋状に心というものも進化してきたのではないかということを、信じる側に私はたつものである。

 

絶望は愚か者の結論だと、思いたい。いつの時代もそうではないかと思うけれども、人間にはやはり、宗教をはじめとする、やあらゆる芸術芸能文化的救い、儀式というものがないとなかなかに、生きるということは至難のことだと、かよわき存在の私は慎ましく認識している。

 

がしかし、個人的なブログなので、何でも書かせて頂きますが、この今の師走の日本の空の下を覆う、なんとも形容しがたい、うそ寒さは何に起因しているのであろうかと、いささか虚ろな思いにとらわれてしまうのも、哀しいけれど事実である。虚しすぎる言葉が跳梁跋扈する無自覚の痛みの無い、騙る言語。

 

この度の選挙は、この国に生きる人間の民度が問われる選挙なのだと思う。添田唖蝉坊はあきらめ節をうたっているが、希望を捨てたくないから唄っているのだ。幸いパソコンで候補者の人格や主義主張を、注意深く知ることができる時代にわれわれは生きている。

 

昔はこうはいかなかったのだ、いろいろなことを知るという自由を、われわれは生きているのだ。このかけがえのない自由を活かして、個人個人があらゆるアクションを起こさない限り、またもやそのつけは大多数の私をはじめとする弱者に降りかかるのは火を見るよりも明らかだ。

 

個人的に、核・原子力(放射能汚染の子供たちに与えるなんという恐ろしさ)のことを、心から真剣に考え、(痛みと想像力を持った)続けている政治家を、私は選びたい。

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