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2023-07-08

改めてこれから、松岡和子訳、河合祥一郎訳でW・シェイクスピアを音読することにきめました。

 もうすでに今年も半年が瞬く間にすぎ、この半年間何をしていたのか、おおよその足跡がたどれるという点で、五十鈴川だよりを打ち続けていることの意味はあると、自己満足自己肯定感、にしがみついている。

なにがしかの日々の積み重ね、あちらこちら寄り道しながらも、足元にきちんと帰ってきて、自分という、考える葦、不確かな実在の調節機能を五十鈴川だよりを打つことで、よたよた、とぼとぼと、今をいきる私である。

年齢的には、もうほとんど社会的な役割は終えているのだから、初めて経験する未知のゾーンを、一日一日悔いなく歩んでいるというのが、正直なところである。あるがままに、自在に自分の気持ちのいいことで一日を過ごしてゆく。

知的好奇心が揺さぶられる

そういう意味では、つましい暮らし、それはこれまでの人生今に至るも、ずっとそうだったから、耐性がしっかと根を下ろしている。耐乏生活を若い頃から何度もしのいできているし、そのような生活のなかで、いかに凌いで生き延びるのかと言う知恵があるからこそ、今をこんなにも充実していきられているのだと、手前かってに思っている。

体ひとつが全財産だという認識は、今もってまったく変わらないし、古希を過ぎてからはますますその思いは強まり、この動く体の手入れをしながら、先ずは働いている。働ける体は自由になるお金を幾ばくか産み出す。18才から庶民としてのりを越えたお金と言うものを、手にしたことがない。

だから、限られたなかでのやりくりを、今現在も続けている。限られた中でのお金は、私自身のこれまでの人生を、限りなく鍛えてきた。そういう意味ではいまも心身が鍛えられている。知らず知らずのうちに、あるものを最大限に有効に使い、できるだけお金には頼らない、もっと言えば、お金を使わず、自分が気持ちよくなってゆく方法を、探求する習性が身に付いてしまったように思う。

61才で退職と同時に、シェイクスピア作品の音読を、30年ぶりに始めたのだが、コロナで塾は閉じたが、個人的には継続している。音読にはまったくお金がかからない。私が好きなことは(旅以外は)ほとんどお金が不要である。

一冊の本を、労働生活しながら2周間かけてじっくりと読める贅沢な時間は、ようやくにしててにいれた宝石のような時間である。このような生活時間を共有できて遊べる音読仲間がいれば、もうほとんど足りる、という気がする。

ふるさとでの感謝行脚以後、これからの時間をいかに生きるのかの、方途が明確になってきたのである。働ける間は働く。土に親しむ。妻と歩く。散歩する。自転車に乗る。平行してシェイクスピア作品を改めて、初心に帰って音読する。古典を読む。時おり会う孫に読み聞かせをする、等である。

PS シェイクスピアは人間の狂気、戦争のおろかさ、不毛を、途方もないスケールで、時空を越えてドラマ化してる(とおもえる)口が動く間は、音読し続けたい。



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