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2023-07-04

親友68才の、ロミオとジュリエットのバルコニーのシーン、音読初挑戦を見届けました。そして想う。

 前回の上京で、シェイクスピアのロミオとジュリエットのバルコニーのシーンを、毎週土曜日、全8回音読し最終日に発表するという話を親友から聞いた。その事に関してはすでに五十鈴川だよりに書いているので割愛する。

親友と発表会を終え俳優座の稽古場で

親友から、もし時間があったら発表会を婉曲的に見に来てほしいというメールをいただいたのは、私が宮崎に帰省する前だったとおもう。もちろん私は見届けるつもりで一泊二日のスケジュールでもゆく予定であった。だが親友から可能なら事前に、一日でもいいから稽古をつけてほしいとのメールをもらったのは、ふるさとから帰ってまもなくの事だった。

そこで急遽、朝一番の電車で岡山にでて新幹線で上京、親友と新橋の駅で落ち合い、降りしきる雨のなか日比谷公園まで10分位歩き(親友が傘を買ってくれた)三神勲訳のバルコニーのシーンを2時間以上13時まで二人稽古をした。始まりはかなりの雨だったのだが、終える頃には雨は上がっていた。(ランチを食べるOL数人がベンチから我々の音読を時おり眺めていた)

なにしろ知り合って45年にもなるという、綱渡りのような奇跡的な交遊、関係性の果てにたどり着いた、シェイクスピアを音読するという親友の大胆な初挑戦、かけ換えのない親友のこんなにも切羽詰まった、(恥も外聞もないとはまさにこの事)顔を私は初めてみた。

よもやまさか、いきなり親友と日比谷公園の野外のとある古い建物の軒先で、行き交う人々の前で大胆不敵にも二人して声を出した。正直、えっと思わないではなかったが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で二人して声を出し続けた。これが大都会のよさである。魔の都東京にすむあまたの人間は他者が何をしていようと無関心でいてくれるのが、このときは実に嬉しかった。

他の芝居の稽古をしている舞台で発表会はおこなわれた

野外路上レッスンができることがよくわかり、老いつつも限りない自由を満喫した。まるでドンキホーテとサンチョパンサ、二人して行き交う衆人環視のなかでレッスンを終えた。心から楽しかった。

美味しいランチを(親友がすべてゴチしてくれた)東京新聞本社のレストランでいただき、午後のレッスンは雨が上がっていたので場所を移動し、午後3時まで稽古した。

翌、本番当日再びかなりの雨のなか、同じ場所で一時間本番前レッスンをやり、六本木の俳優座に移動、昼食を慌ただしく終え午後二時発表会開始、一部7組、2部7組、参加者28名、計14組のロミオとジュリエットのバルコニーシーンを私は見届けた。午後5時にすべて終わった。

親友は5番目に登場、私は緊張したが、無事にやり遂げた。うまい下手ではなく親友の必死なロミオの姿を見届け、親友の挑戦に心から感動した。記録としてなんとしても五十鈴川だよりに刻んでおきたい。

親友が私を信頼してくれていることのありがたさを、こんなにもじかに感じたのは初めてである。お互い声を出し合いながら、45年にわたる関係性を祝福し合い、まるで子供に帰ったかのようにレッスンができた。年が年だからひときわ感動する。よくもまあ実現したものである。真の意味で親友はアクターになった、と打っておきたい。

シェイクスピアのまさにお導きというほかはない。親友は初めて私のレッスンを受けたのだが、なんと私とのレッスンをこれからも続けたいと言ってくれたのである。嬉しかった。親友とはなんとありがたい存在であることか。そして、またもやシェイクスピアの偉大さが改めて染みてきた。同じ台詞、同じ言葉なのに演者によってこうにも、ロミオとジュリエットが変化するとは。

よき関係性の持続は、自分が変化する勇気を持続する好奇心が、特にシェイクスピア作品の音読には不可欠である。うまい下手は二の次である。要はシェイクスピアの宝石のような人物の言葉を自分の肉体で声に出す喜びを、見つけられるか、見つけられないかである。

わが友はシェイクスピア作品の音読の魅力に遅蒔きといえども目覚めたのである。こんなに嬉しいことが起こるとは。だから人生は面白いのだ。諦めてはならない。人間のからだの、意識の摩訶不思議さ、ヒトという生き物の千変万化をシェイクスピアはあまねく言葉で表現している。

出会って45年、シェイクスピアのお導きで、我々は再び真の意味で友達となったのである。



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