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2022-11-05

新聞一面、今朝の東アフリカ大干ばつの記事におもう、思わぬ五十鈴川だより。

外はまだ暗いなか、新聞を取りにゆくと一面トップに東アフリカエリア大干ばつ、気候危機の記事が大きく掲載されていて、数百万の動物と人間生活の危機が伝えられている。いささか 重い気分で、五十鈴川だよりに向かい合っている。昨日の夕方のNHKのニュース映像で、インドのニューデリーでの大気汚染の映像を見て、あまりのすごさに、目が吸いつけられた。

実は相当昔、20数年以上も前、初めて東インドカルカッタに行ったことがあるのだが、そのときの大気汚染のすごさを体感した記憶が、今回のニュース映像で、まざまざとあのときの記憶がよみがえってきたのだ。あれから数十年、インドの経済活動は目覚ましい。その一方で深刻な大気汚染が、西インドニューデリーまで及んでいることには驚かされた。かくも大気汚染が進んでいることに。命を脅かす大気汚染生活を多くの人々が強いられている。特に赤ちゃんを含めた未来の人々の命にたいして、排気ガス、二酸化炭素を大量にばらまく企業は、真剣に考え対策を高じるのが、21世紀の企業倫理であるのは言うまでもない。持続可能社会を急がなければ未来はないと、かなりの若い世代が意欲的に取り組んでいるのが、希望救いである。

経済発展という幻想強欲グローバル資本主義、とても私の頭、言葉では整理表すことは不可能ではあれ、このおおよそあまねくゆくわたりつつある全地球車社会、飛行機ほか、高速移動モビリティ、排気ガス社会がもたらしていることは、まず間違いない。コップ21気候変動対策が行われているが、そうこうしている間に、とんでもないことがもうすでに起こりつつあるのではないかという、恐ろしさが老人の私をとらえてしまう朝である。

色づく我が家のホウキ草

岡山に、日本に暮らしていると、限りなくピント来ないが、40才までに、そしてその後も50才までアフリカ、インドほか40か国近い国を旅したことがあり、異国から母国を眺めたことがことがある私には、もちろん私を含め、日本人は限りなく穏やかで平和に慣れきった、極楽とんぼ民族のように思えてしまう。

もう十分に、私を含めこの惑星に生存するかなりの人々は、人間のこの利便性の究極を求めてやまない一見快適な幻想性の上にたって進行してきた生活のなれの果てに、よもやこんなに生物多様性が失われ、結果緑が砂漠化し、結果人間の心、精神性までもが、カラカラに砂漠化していることに、気づいているのではないかと。

対岸の家事どころではない。この地球に生を受け、奇跡的惑星にすんでいられる70億以上もの人類は、草木一本までが、命で繋がっているのだ。水と光と土があればこそ、あらゆる生命は循環し生きることが出来る。まずは食えていきられる。その事があってこその文化健康社会であある。お札や金貨は食えないのである。基本のおろそかな社会は儚い。家族ほか、つまり人間が(ペット、家畜、すべての動植物)命を繋ぐことが出来る(自然に生と死が循環し)社会の構築こそが急がれると、初老盆ぷはおもう。手遅れにならないうちに。

排気ガスほかが日々撒き散らす、見えない空気のなかに含まれる、命に害をもたらす危険な物質が日々人々の体に蓄積され、ある日突然臨界点 に達してからではあまりにも遅い。ではどうするか、一人一人がやれることを考え続け、諦めないことである。(ということしかない)わたしは反省する。いたいけない無垢な孫の表情を見ると、老人のわたしはどこかがいまだうずく。少しでもきれいな酸素を吸わしてあげたくなる。(すべての子供に)未来の人たちに今を生きる大人は責任がある。

一分間酸素が途絶えたらヒトは死ぬ。日々の生活のなかで、もっとも大切なことを見失わない想像力と、見て見ぬふりをしない勇気、そしてこれは自分に言い聞かせる。書くことも含め、なにか自分に出来る事を実践することだと。(おもう)


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