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2021-10-27

老いゆく読書の秋、パオロ・ジョルダーノ著【コロナの時代の僕ら】を読み、そして想う。

 このひと月以上、つまりはシェイクスピア音読自在塾を、見切り発車することになるKさんとの再会対話から、何やら怒涛のように時が流れ、そのことにまつわる五十鈴川だよりに終始しているかのようなあんばいなのは事実だが、日々の生活他にも限られた時間の中、読書だけは頭のスイッチを変え、好奇心のアンテナをわずかでも磨きたいとの淡い思いが、いまだ私にはある。

そのような中、先日図書館で、パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳【コロナの時代の僕ら】という本を手にした。著者のことはまるで知らなかったが、本のタイトルにひきつけられた。著者は1982年生まれ、イタリアではよく知られた、若くして傑作を書いている小説家だ、と知った。(是非、小説を読みたい)

もちろんそのようなことを私はまったく知らなかった。昨年一月末イタリアに最初のコロナ感染者が発症し、瞬く間に感染者が増え、死者が増える。わずか数か月で死者の数は万を超える。自粛生活、ロックダウンが 始まる。家族はお葬式、死者にも会えない、病院での面会もできない。(コロナではなく私も入院したが妻との面会はできなかった)分断、寸断、無会話。日常が非日常になる。日本でも同じである。(その点、心からスマホに助けられた)

読んだばかりでコメントは控えるが、すばらしい本に出合ったそのことだけは、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。人間はのど元過ぎれば忘れやすい。特に私のような単細胞はそのことを肝に銘じないと、いけないということを、あらためて感じている。

今のところ日本での感染者数は減少傾向で 、そのこと事態は好ましいことではあるが、油断は禁物である。間もなく2年近くにもなろうかというパンデミック狂騒とでもいうしかない、コロナ時代から、我々はいったい何を学べばいいのかという根源的な、全人類が問わねばならないまさに哲学的な命題が、このエッセイには籠められている。ポストコロナから何を学び、新たな感染症時代の到来を見据え、いかに生きるのかを。

おそらくコロナ時代が訪れなかったら、私は能天気に遊声塾を続け、音読自在塾を発想することはなかった、と断言できる。きわめて個人的な事ながら、コロナはこれからの限りある人生を、まさにどのように、何を基軸にして、羅針盤にして歩めばいいのかを、今も私に問う続けている。

そのようなさなかに、このような異国の30歳も若い世代の思考の柔らかさを知ることができて、まさに読書の秋の果実に巡り合えた幸運に感謝せずにはいられない。インターネット世代の素晴らしさ、私などの世代では及びもつかない思考回路世代が顕れていることが、どこか安心して、老いられる嬉しき感覚に襲われる。

【PS この数十年の人類のあまりのというほかはないほどの温暖化、環境破壊、プラスチックのごみ、森林破壊、アマゾンほかで頻発する大火災、未曾有の気候変動、洪水水害、地震、津波。、海底火山の爆発、激甚災害の多発。映像に麻痺してしまうほどの繰り返し報道。動機が不条理な犯罪の多発、いじめによる自殺者の増加、年齢が高齢化する引きこもり、正直もう打つのが嫌になる、途方に暮れる初老凡夫だが、このような本に巡り合うと、絶望している時間があったら、まずは己の生活を希望をつぐむ時間に当てることをこそが、肝要だと若い世代に教えられる】


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