ページ

2021-10-23

秋風をかすかに感じながら、色づく木の葉が時折舞う中、緑化公園でひとり音読、そして想う。

何回かは書いているのだが、もうほとんど自分は現世に生きているのではなく、生きてはいるのだが、、現世的な感覚からはほど遠い地点に 棲んでいるかのようなあんばいを、生きている自覚がある。 時事問題ほか、以前はかなり関心を寄せていた、多岐にわたる世の中の諸相の出来事に、喜怒哀楽快不快、こころが揺れ動かなくなってきつつあるのを感じる。これを老いてきたからというのならば、あきらかに老いてきたというほかはない。 だがそうとばかりは言えない気もどこかではする。これは本人にしかわからない自覚だが、以前よりもどこか軽やかで自由自在な、あるがままを生きられ始めている己を感じるのである。確かに体の機能の衰えは随所に感じるのだが、こころというか、内面生活は以前にもまして充実しているかのように感じている、のだ。 だからだと思う、このように臆面もなく五十鈴川だよりを打てるのは。おそらく、日々の内面生活のつれづれを、その日のつれづれを、自由自在に綴る、つづりたいといういい意味での我欲のようなものが湧き上がる間は、五十鈴川の流れのように、細き個人的な想いを打つ続けたいと、淡き期待を自分自身に持つのである。 ひとり時間の過ごし方。私を含めこれだけ高齢者が増え、今後ますます増え、曖昧模糊、これだけ複雑極まるかのような、一見先行きが見通せない時代の渦中、老い人たちはこれからをいかに生きてゆけばいいのか、途方に暮れているかのような、時代の諸相を感じながら多くの方は生きているのではあるまいか。 それは老い人たちだけではなく、あらゆる世代がどこか心の底に漠たる不安を抱きつつ生きざるを得ない、あまりにも理不尽で不条理極まる世界の到来を、どこかでかすかに本能的に予感しながらも、その出口が、その出口の正しさがわからないことに、起因しているのではないかと、私など愚者の頭で物思うのである。(物事原点帰り、シンプルに考え、腰を据え、地に足をつけ、生活すれば何もおたおたすることはない、全身で考えるのだ) 私はどこかしらに、悲観的になりがちな自分を感じながらも、自分の生活範囲でだけは、物事を悲観的に考えるのではなく、生活の中に生きがいの種子のようなものを探しながら、今までも生きてきたし、今もまた今日の五十鈴川だよりを打ちながら、いかに生きて一日を過ごすのかを、カッコつければ問うのである。 ややこしき不自由な自分という器に、自由というかけがえのない感覚を模索するのである。この感覚が在る間は、五十鈴川だよりを打ち続けたい、打てるのではないかとの期待を自分の中に持つのである。
ああでもない、こうでもない。本当に自分の中から湧き上がってくる感覚があったればこそ、音読自在塾にたどり着けたのだと思う。コロナが終息し、マスク生活におさらばしてから、音読自在塾を始める予定だったのだが、Kさんとの関係性の妙で、見切り発車のような形でスタートし、おおよそひと月である。(二人だからコロナ渦中でもやれているのである、少数の塾を目指す) まだ始まったばかりだが、こころから心身がリセットされたからかもしれないが、老いつつもどこか軽やかな現在を生きられている自覚がある。 世阿弥の花伝書に、老いの花という言葉が遺されている。老いの花を求めて、自分自身のためのレッスンをKサンと共に歩む覚悟である。

0 件のコメント:

コメントを投稿