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2018-12-16

今年も年の瀬が近づいてきました、そして想う。

この一年を振り返るのには、まだちょっと早いが、66歳で過ごしている今年は後年きっと転機を迎えた歳として、記憶されるだろう。望晃くんの生誕、リア王が読めたこと、弓道の初心者教室を終了したことなど。

何事もよいことばかりではない。つらいこともあった。ヒトは総体的に良いことなどは、厚かましいくらいに書けるが、つらいことや整理がつかないことなどは、なかなかにかけないものである。

かくいう私もそうである。私はかなりの饒舌家であるが、整理のつかない思いは文章化することで、もやもやのおもいを明らかにしたい、だから沈黙の時間を過ごすのである。

さて、シェイクスピア遊声塾を始めてもう丸6年が過ぎようとしている。今夜が遊声塾の今年最後のレッスンである。

何度も書いているから もうよすが、よもやまさか、30年近くシェイクスピアを声に出していなかった私が、思い付きと勢いで始めた極めて個人的塾が6年も続いている、現在6名の塾生がいる。

まずは参加してくださっている塾生のおかげがあるからこそ続けられている、そのことがまず第一である。始めた当初30年も声を出して読んでいなかった私の体は、膨大なエネルギーの登場人物の言葉を声に出すたびに体が 悲鳴を上げていた。

それでも、やはり楽しかったからだろう。塾生の入退が続く中、最古参のY氏と共に声を出し続けての現在である。在塾の塾生は時に厳しい私のレッスンに耐えている、素敵な面々である。

肉体的には下り坂の初老生活の中で、とにもかくにも声を毎週毎週全身で声を出し続けて丸6年。漸くにしてほんのわずかではあるが、自分の中にも塾生の中にも手ごたえを感じ始めている。

その感覚があるからこそ、いまだ湧き上がる情熱のようなものにしがみついているのである。昨日書いた村上春樹氏は小説を書くのが大好きであると、天職であると述べておられる。
この方の本は年の瀬ゆっくりと読みたい

そんな大作家の言葉を持ち出すのもはばかられるが、ささやかにシェイクスピアを声に出して読むことに、飽きない(好きだから)からこそ初老男の躰を時折忘れて、満座に恥をさらし声が出せるのだろうと、思っている。

私にとっては謎の戯曲、リア王を何とか終え、頭の切り替えに時間がかかったが、私にとっての原点ともいえる ロミオとジュリエットに、いま私と塾生は挑んでいる。

私にとってシェイクスピアが創造した、あまりにも魅力的な登場人物の台詞は、いまだ初老男を活性化させる。日本語によるシェイクスピア作品に巡り合えた私の好運というしかない。

息を吸い、吐き、膨大な熱い言葉の洪水との戦い、その果てに見えてくるものがある。それはたたかわないものには永遠に見えてこない類の何かである。

やわな私の体は、何度もシェイクスピアの言葉の前で、息が切れる。でもいい切れた時、吐ききった時には恍惚感が体に満ちる。

登場人物と自分が瞬間入れ変わる、変身する。人間は自分と他者が時折入れ替わる器である。老いを見つめながら、声が出せる器としての体を一年でも長く大切にしたという思いが深まる。







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