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2018-12-02

本から本への老いらく時間へと、やがてはシフトしたいと想う師走の朝。

ことしもはや12月にはいった。月並みだが、歳月は人を待たずという言葉が沁み行ってくる。

だが、こうして月並みな拙文を今現在つづれることの有難さを、どこか深く感じ入ってしまう。

この世に生を受け、時代の影響をもろに受けながら、曲がりなりにもどうにか生き延びることができ、こうして生きていられることの不思議さを、いまだ感じながら、そうして一日の始まりに、五十鈴川だよりがつづれる幸を。

日の出が遅くなって、間もなく二階のこの部屋に日差しが朝の到来を告げる。年々、日の出や、日没、月の形の推移に、また雨や風、あらゆる気象の変化に、わが心は微妙なざわめきを覚えるようになってきた。

老いる、つまりは死者の側に近づくにつれ、生きていることの微妙な淡いが、ことさらにしみてくるようになってきた。これを老いの幸徳と私は受け止めている。

すでに何回か書いているし、これからわが命がいつまであるのかは皆目知る由もないが、これからはことさらに動けなくなる、動かなくなる自己を、静かに見つめる(内面はきっと激しく動きながら)日々が増えてゆくのでは、と66歳の年の瀬に思い、その転機の年の始まりとしての、老いの揺れ具合を五十鈴川だよりに記しておきたい。

おのれの体の微妙な移ろいは、おのれの体が一番やはり感じている。その中で今日やれることの優先的な大事、小事を、きちんと整理しながらきっと来年からは、ことさらに不義理を承知しながらの、老い楽ライフに意識的にシフトしてゆくつもりである。

ということで、義理的な年賀状はよすことにした。とはいっても絶対矛盾を生きる私であるから、出したい方には年が明け手書きの一文を筆にしたためたいと、(書ける間は)思っている。

話を変える。この数年若い時にあまりに学ばなかったつけをしみじみ感じる。松岡正剛氏の本や、佐藤優氏の本を読むにつけ、気づいた時からでもいいから、読まねばならぬ読みたい本が目白押しなのである。
歴史的な現在を編集工学する知的巨人

本を読むには、体力がいる。健康体でないと集中力持続力が続かない。この6年シェイクスピア遊声塾で声を出しつつづけてきたおかげで、あまり遠出はしなくなったものの 元気である。

わが本格的な初老生活は、学ぶことに費やしたいとの思いが年々深まり、有限なるわが人生を、可能なら知的好奇心に充てたいのである。

無知から出発し、無知を思い知らされ続けての現在であるにもせよ、そのおかげで何やらを少し感じるようになってきて、若い頃は手の届かなかった本が 読めるのだから。

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