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2018-10-24

神は、目に見えない細部にいらっしゃる、という気づき。

起きたばかりでまだ身体がボーっとしているが、何か書いて体を起こして、今日一日を始めたい。

雨上がりの朝、新聞を取りに外に出たのだが、なんとも気持ちがよくて、今日はたまさか遊声塾もお休みなので、終日完全なオフタイムである。

オフタイムではあるが、このような日にこそ、その分ロミオとジュリエットを丁寧に読む時間に充てたいという、私の思いがある。

リア王から意識的に始めたことに、いろんな役の長いセリフや、気に入ったセリフ、いいにくいセリフなどを、書き写しながら、声に出すということがある。

それと散歩を兼ねて、立って歩きながら、ぶつぶつとつぶやきながら、声を出すということも。こちらは数年前からやっていたのだが、より意識的に散歩時間に組み込むようにしたのである。

気分がいまいちの時でも、青い空の下、あるいは曇りでも、あるいは激しい雨でなければ、これがなかなかによろしい。
シェイクスピア解読対談、素晴らしく面白い

私は、限りなく人生も晩節を迎えて反省しきりの、昨今である。三つ子の魂は治らないものの、自分自身の至らなさへの気づきは、若干深まっているのではないかという、自覚がある。

反射神経他、いろんな動作が緩やかに下っているのを自覚しながら、何事も意識的に丁寧にゆっくりとやろうという、時間はかかるがそのことをマイナスに考えるのではなく、あえて楽しもうという、逆転の発想である。

例えば食事の後の後片付けは、ほぼ完全に私がやる様に自然に最近なってきた。なぜなのか、苦にならず愉しいからである。掃除他リタイヤ後、私が苦にならず取り組んでいる生活する上での家事雑事を、なるべく丁寧にやる様になってきたのである。

これはひとえに遊声塾を立ち上げて、丁寧に言葉を声に出し続けていることと、あながち無関係ではないように感じている。繰り返し丁寧に、ゆっくりと、用心深く声を出すしか、シェイクスピアの登場人物は近づいてこないのである。

何度も書いているが、小さいころから私は怠惰で横着で、日向人的などこかずさんな自分を持て余しつつ(いまもであるが)何とかこの年まで生き延びてきたが、ようやく近年シェイクスピアを声に出して読み続ける中で、塾を立ち上げたことで、幾分かではあるが、その横着さが改善の兆しなのである。

オーバーだが、自分自身の至らなさや弱点を、気づいた時から少しでも見つめなおし、改善するためには、台詞を繰り返し諳んじる営為(よしんば諳んじられなくても)、書くということのほか、あらゆる手間暇のかかることの中にこそ、何か大切なものが潜んでいる。(との思いだ)

神は細部に宿る、というが目に付くところには神はいらっしゃらない、のである。












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