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2017-05-15

とりとめなき春の夜の真夜中ブログ。

弓道の先生が、まず体であるとおっしゃる。次にこころ、そして技であると。まったくそうであるなあ、と小生ごときも首肯する。

声を出してシェイクスピア作品を読むことも、まったくそうである。心とは、何かと 考え始めると、私のような能天気、単細胞は頭が痛くなってというか、頭が痛くなる永遠の謎というしかないが、魂というか、言葉ではいかんとも表現しがたい、意識の発露が人間の肉体には備わっている。もの想う心。

それが何故湧いてくるのかが謎であるのだが、謎は解明しても解明しきれないところにこそ、素晴らしいのだと、考える側に私は立つ。説明の遠く及ばない何かに導かれて、ヒトは生きて動いてゆく、そこにこそ人間の存在理由の摩訶不思議面白さがあるのではないか、と。(この歳になっていきなり弓を始めることもそうだ)

例えば、一昨日遊声塾の帰りに、朧月夜の満月が天空に見えた時、身体がただただ喜んだのだが、太古から人類は、その神秘感に幾度となく打ち震えたに違いないと、私は思う。でなければあまたの芸術や文学が生まれるはずがない。
妻に薦められ読み始めた私はあまり小説を読まないがこれからは多面的に読みたい


ところでわたくしごときではあれ、ささやかな感動の発露の自分との対話が、五十鈴川だよりとなって、吐露され、臆面もなく意識の流れが、言葉となって表出する。何かに心が揺り動かされる、揺れ動く間は、一文を紡ぎたく思う。

想えば、40歳で中世夢が原で仕事をするまで、私は人様の前にさらす文章を書いたことがなかった。今でもはっきり覚えているが、(どこかにあるかと思うので、いつか探してみます)朝日新聞に依頼され、岡山に移住したばかりでの、生活の変化をエッセイ風に書いたのが、最初の一文である。(以後たまさか依頼される)

それまで、ほとんど文章というものを書いたことがなかったのに、すらすら書けたのは、きっと書くことが、書きたいことがあったからだろう。

あれから25年の歳月が流れているが、時代はデジタル、ブログという体裁であれ、このように一文を書き続けられるのは、きっと体の中に棲む(心が澄んだ時間帯に湧いてくる)名状しがたいもの想う心という目に見えないものがあるからとしか言いようがない。

なぜバラは咲くのか、ヒトや物を想い、愛し、さすらうのか?そしてまた果てしなく憎しみ合うのか?永遠の命の謎だ。とりとめなき真夜中ブログになったが、ごようしゃを。

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