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2017-05-12

私と、塾生6名でリア王を読む、そして思う。

GWが終わり、5月10日夜、遊声塾のレッスンが2週間ぶりに行われたのだが、このように塾生6名が全員そろったのは初めてのことではないかと思った。

想えば、遊声塾を始めて5年目、よもやまさか6名の塾生に恵まれる日がやってこようとは思いもしなかったので、その夜はやはりある種の私にしかわからない嬉しさに心がつつまれた。

そのような思いを抱きながら、私を含めて7人でリア王を群読したのだが、やはりこれだけの人数で読むと、なんとも言えず愉しい。塾生がいとおかしく、限りなく愛おしい。

最近、自分でいうのもなんだが、ささやかな小さな良きことが、日々の暮らしの中でつぎつぎと起こる。なぜなのだろう。ピーターブルックの言葉だが、秘密は何もない。

18歳で世の中に出てから、 世間の荒波を直に受け、そのきわめて個人的な艱難辛苦であれ、何とか乗り越えつつ、今を生きている私には、ささやかな喜びこそが大事、すべてなのである。

ささやかな喜びの積み重ねの大事、ちりも積もればの念じ方の、ゆくへいかんで、いかに人生は彩を変えることかと、痛感する。
23歳の時に買った素晴らしい辞典。こんなにも重宝する日がこようとは。

リア王4幕第一場、エドガーの言葉【 人間、運に見放されてどん底の境遇まで落ちれば、あとは浮かび上がる希望のみあって、不安はない。悲しい運命の変化は最高の絶頂からはじまる】

若い頃、なんどこの言葉を噛みしめたことか。人は人にすがり言葉にすがる。特に私はその傾向が顕著である。言葉の宝石が無尽蔵にちりばめられ、悪人であれ善人であれ、その言葉は今もなお私を魅了する。

シェイクスピアの豊饒、広大無辺の言葉を、私のか細い貧弱な肉体で表現する無謀さを、私は深く自覚しているが、それでもなお、リアをはじめとする多彩なあまりにも人間的な、根源的な登場人物の発する言葉の輝きは、400年前の言葉とは思えない。初老をしばし忘れて挑みたくなる。

リア王世界は、現代世界を映し出し照射する。 初老の体に息を吹き込み、シェイクスピアの言葉を繰り返し声に出しながら生活できることは、言葉にできない、まさに生きている喜びだ。

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