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2016-01-20

若き外科医がかかれた新書版の死についての考察本を読み、思う。

1980年生まれの若き外科医(中山しんじろう著)が書いた本をたまたま図書館で手にし、手すきの時間に昨夜読みおえた。

新書版で読みやすいので、今朝妻にも読んでみたらと手渡した。メメントモリ、死について想う、伝えたいことの現時点での一切が若き血潮で語られている。

全存在をかけて書いた本に対する軽はずみな寸評は、ブログでは控えるが一言私にはとても共感することが多く、あらためて若い方々に素晴らしき感性の持ち主が、多分野に輩出していることを知らされた。

ささやかに、いま生きていることへの感謝や、あれやこれやの思いが私をして恥をかくことを顧みず、五十鈴川だよりを書かせている。

まさに生きていること、存在していることの漠たる不思議な思いが、この年齢にしても私の中では深まりつつある気配なのだ。

まさに人間の定義は数々あれど、真理はひとつ、人間は確実に死ぬということである。ならばいかに生きるべきかを、中山医師 は思考し伝えている。

いかに生きるべきかを考えることは、いかに死ぬべきかを考えることだと、言葉では耳にする。寿命の長短はあれ、ヒトはやがて死ぬ。

ならばいかように生きて、いかように末後の時を迎えるのかは、私個人にとっても他人ごとではない一大事である。初めて書くが、そのお迎えに向かって今を私は生きている。死という一点を見据えて生きる勇気をささやかに日々育みたいのである。

【おそらくその際、もう私は私自身から解き放たれている存在に還っていて私という自意識から自由になっていると思う】

 中山医師も書いているが、ヒトはやがては死ぬためにこそ玉響の生を生きざるを得ない、はかなくもまた永遠に揺らぐ存在であるということにしがみついて、私などは じたばたと生きているという認識である。

いつまでも在ると思うなわが命なのである。私が繰り返しバカのように書いているw・シェイクスピアは生と死というあたかも対になるような概念を、死にながら生き、生きながら死ぬ、精神と肉体を合わせもつ、はかなき存在の人間の素晴らしさを、絶対矛盾のなかで劇的に表現しているかに思える。

おかげさまで私は元気でブログを書き、声を発する幸福を噛みしめられる今日を生きているが、明日は不確かななのである。

だからなのだと思う、命を確認するかの如くブログを書いて いるのは。粉雪舞い散るあさ、洗濯物を干しながら朝日を浴び、冷たくなった手に息を吹きかけられるのも、生きているからこそである。

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