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2015-12-23

【間違いの喜劇】を一人で丸ごと読んでみたいと夢見る。

書き続けながら考える律動を続ける。ブログはいまやおまじない、気付け薬的な感じさえこの頃はしている。

いかに今日一日を過ごすかのだいたいは、ブログを書くことで整理確認が可能になってきつつある。私の人生はブログを書くことで、ことのほか充実の度合いが(手前みそですが)深まってきたように感じている。

毎日書いているわけではないのだが、書いていない日もそこはかとなく書いているかのような感覚が暮らしの中にキープできているのである。

柳田邦夫さんがおっしゃっていたが、人は物語を作る生き物、人生を物語化することで生きてゆくよすがとするということが、私なんかはとてもするのである。

だから演劇を、無意識にも学んだのではないかという気がする、というくらいで今朝はこれ以上書かないが、人は幻想や夢、物語にすがる生き物(私の場合)ではないかという気がしてならない。

ところで、いまシェイクスピアの【夏の世の夢】を遊声塾で読んでいるのだが、人生はまさに夢か幻のように私などは考えてしまう癖が身についてしまっていて、こうも世知辛い世の中にだと、ますます夢や幻にすがらないと、何と人生は無味乾燥に思えることかと、しばしシェイクスピアの登場人物のようなセリフの一つも吐きたくなる。だから私はシェイクスピア作品が好きなのである。

妻に言わせると自己愛が強いというのだが。屁理屈かもしれないが自己を愛すということと他者を愛すということは、私の中では不可分につながっている。

自分がいいコンディションでないと、なかなかにヒトを愛するという感覚が私の場合は育めないのだ。うまく言えない感覚なので、これ以上は書くのは控えるが。
教会で式を終え友人たちとお茶タイム、怜君と娘

魂や心を育むために、人はいかように生きてゆけばいいのかを この大変動時代、カオス化する世相を前にして、書きながらうすらぼんやりと考え続ける。

結論なきことを考えることの何という無意味な贅沢的言葉遊び。

ハムレットのように、言葉、言葉、言葉と、息を吐きながら運命に殉じてゆく、といった塩梅。

 話は変わる。月が徐々に満月に向かうこのころ、夕方図書館にゆき、併設する運動公園で散歩がてら体を動かして遊ぶ。

ほんの30分くらいだが平均して週3回程度は続けている。

昨日鉄棒で久しぶりに、懸垂をしてみた。ずいぶんしていなかったのに、何と4回できた。回数は問題ではないのだがやはりうれしい。わずか4回で身体中に血液が行き渡る。

引力に逆らって自分の62キロの体を腕で引き上げるという行為は、私の最も苦手な行為なのである。無理はしてはならないが、あまりに自分の体を歳だからといって甘やかすのもわたしの性格にはそぐわない。

膨大なシェイクスピアの作品の中で一番短い戯曲【間違いの喜劇】を全部一人で遊読してみたいという夢が最近私の中で 起こってきた。息が浅いととてもではないができない。

深い意味はない、ただただ今を生きていることに感謝し、できることをできるうちにやっておこうという気持ちになりつつあるのだ。

うまい下手も関係ない、ただただ全部を一人で読めるうちに人前に体をさらして、遊びながら読んでみたいのである。入れ歯になったら確実に読めないのだから、初老の男のわがままを私は夢見る。





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