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2015-12-15

壁を塗り、ささやかに自分の中の壁を見据える勇気を育みたいと思う。

年内に壁を塗り終えたせいか、気分がことのほかすっきりした年の瀬を迎えている。とはいってもまだあと半月師走は在る。

娘と怜君はクリスマスはドレスデンに帰るので、今年のお正月はちょっとさみしいが新年になったら会えるのだし、向こうのご両親にも怜君 は会いたいだろうし、交互に行ったり来たりできれば私はそれでいい。

というわけで、先日怜君と娘にクリスマスプレゼントのお料理の本を先日買った。今日カードを入れて送るつもりだ。
ドレスデンの旧市街を走る馬車

怜君の国では、やはりクリスマスが日本のお正月のような感じで祝うからだ。

義理の息子ができたがために、にわかに私も彼の誕生日やクリスマスに何かをプレゼントしたいという思いが湧いてきた。

他者のことを、身内に限らずおもんぱかる精神的な余裕のような感情が育ちつつあるわが体で、母の影響が大である。

他者が喜んでくれることをやれる自分がうれしいのだ。

壁を塗り終え、妻や母がことのほかねぎらってくれた。やはり男性の私にしかできないことも多々あるし、主のささやかな存在感を示すことができた、かな。

壁を塗り、壁を超えたではないが、ささやかに脳のシナプスが元気な最近のわが体である。一人遊び的な時間の過ごし方なのに、他者が喜んでくれるようなことができるなんてことがあるのだ。

お料理だって掃除だってなんだってかまわないのだが、妻や娘が喜んでくれるからこそやりがいも湧くのである。

他者の存在なくして、我が身の喜びはないのである。考えてみるとすべては当たり前のことばかりである。 その当たり前のことに気づくというのがこれまた大変なことなのだが。

気づいてもこれまた実行しなければ意味は生まれない。実行するには健康に動ける身体がないと、なかなかに実践は叶わないということになる。

老いは体のいろんな部分の反射が緩やかになってくるが、歩くスピードでやれば十分にいまだいろんなことが可能だということを思わぬ壁塗りで私は学んだ。

お向かいの奥さんが私が壁を塗っていたら話しかけてきた。これまではごあいさつ程度だったが初めての本格的な日常会話を楽しめた。

けがの功名という言葉があるが、壁塗りの功名。家族にもいい影響を及ぼし始めているような気配もある。

妻がいつにもまして早く、大掃除ではないが家の中のあれやこれやをいい感じに整理整頓、片づけ始めたのである。

いい意味で、家の中が活性化してきた。穏やかな実践の中で互いが刺激を受けあえる間接対話。 あらゆる循環がうまくゆけば、血の周りもよくなり毛細血管にまで行き渡る。

再三書いているように、いわば遊べる身体をいかように持続できるかにこそ、私はこだわりたい。

動き、読み書き、じたばた声を出しながら見えない世界を感知する感覚をこそなくしたくはないものだ。

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