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2015-06-22

以前体調はいまいち、でも何か書かずにはいられない朝。

昨日は体調が良ければ京都までデモにゆくつもりでいた。もちろんこの国の行く末を決定的に左右する、安全保障法案の可決に反対するためのデモである。なぜかくも急ぐのか、その根拠がまったく私にはわからない。

私はこれまで自分の人生でデモに出かけたことが一度だけある、それはまだ東京に住んでいたころで、原子力発電に反対するためのデモである。(そのことはまたいつか書きたい)

今回再び人生で2度目のデモに出かける感情が、自然と 私の中で起こってきている。横暴というしかない、国の運命ではなく、大多数の人の運命が左右されるこの大事に関して、一人の人間として、無関心でいるということは、どうしても私にはできない。

 藤原新也さんのブログによると、瀬戸内寂聴さんは死ぬ覚悟でこの法案反対のデモに東京まで、あのご年齢で出かけている。

わたくしごと気も何かアクションを起こさないと、何やらご先祖(特に両親)に申し訳ないし、何よりも決まってしまったら、先の大戦と同じで取り返しがつかなくなる、気がする。

未来の人たちに、あの時どうして動いて反対してくれなかったのと、私は言われたくはないのである。一人の庶民である大人の私は、これからの未来人たちに対して責任がある。

岡山にいるとあまりピンと来ないが、都市部では若い方たちがこの法案に異議を申し立ててデモを行っている姿をネットを通して私も知ったが、初老の私も若い方たちと同じように、異を唱えたい。

この国策の行方にはきちんとアンテナを張っておかないと、繰り返すが取り返しがつかなくなる。

これほどの重要法案を落ち着いて憲法を変える手続きもふまず決めようとする、与党の、権力を握った側の横暴さには、戦後生まれの民主主義教育を受けた私は、ただただ言葉がない。

(いきなり脈絡ないが、多数決ということの哀しみのようなことを私は 常づね感じているが、昨日の書評で、大竹文雄氏が、坂井豊貴著、多数決を疑う、岩波新書を取り上げている)

 小さい魚が、大きな魚に一飲みにされないためにはどうしたらいいのか、メダカはメダカなりに、各々一人一人が自分の愛の居場所で考えなければならないと、ヒダカは考えるのである。

そして、深刻にではなく笑顔で、平常心で穏やかにデモに参加し、自分の娘たち世代の若い方たちと連帯したい。

先の大戦で負けたが故に手にした、表現言論の自由、専守防衛の軍は保持するが、戦争は永久に放棄する 世界に誇れる憲法は、私は何と言われようと、未来の家族のためにも、おじさんはオーバーではなく死守したい。

若い方たちがアクションを起こし始めたのだ。初老の私も体を動かして、今を生きる若い方たちとともにデモ行進に参加し、ささやかに示威行為をするつもりだ。

家族も、畑も、何もかも、平和あればこそ、ぼーっとしていたら一瞬で破壊されてしまう、信じられないほどの大きな代償を余儀なくされるされる、空恐ろしいほどの現代というサイバー時代を否応なく生きてゆかざるを得ない、という認識が私にはある、が深刻になる愚はさけたい。

戦争を経験してないが故にあえて私は想像し考える。戦後70年、経験した世代が、必死であらゆることを伝えている。私はただただ、耳を澄ませて想像力全開でその声を聞き取る努力をしなければならないと思う。(最近は時間の許す範囲で新聞を切り抜いています)

自分の身に置き換えてみると、ただただゾッとする。その受け止める感覚が持続する間は五十鈴川だよりはながれ、こうやってブログを書かずにはいられなくなる。間接的だが、 伝えた人の思いが私に伝わる。
 
戦争の狂気のおぞましさの一員には決して なりたくはないし、それは地球上に生きるあらゆる民族の人たちも常識的に同じではないのか、という認識の側に私は立つ。

ではだれが、戦争を望むのか、争いはどうして起こるのか、五十鈴川は流れに身をゆだねながら川底で考える。


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