ページ

2013-09-15

オロの試写をした翌朝雨音を聴きながら思う

平ら亀次郎さんの作った小屋からの眺め、最高の眺め

昨夜岡山の知人の小さなスペースで、晩秋11月にやろうと思っている【オロ】というフィルムの試写をした。

 

こんなことをしたのは初めてだがまたもやいろんなことを考えてしまう夜となった。土取さんとサルドノさんの舞台(言葉がなかった、素晴らしかった)を見て京都から帰って来たばかり、わたしがいい意味で疲れていたこともある。

 

説明したり、上手く伝えられないことは、言葉では私は書けないし、言えない。だから企画をして見て頂いているのだ。企画者と評論家(真の批評家は別)は全く違う。共感(共振)する観客に出会いたいと、企画しながらいつも思う。
 
2003年の日韓パーカッションフェスティバルからあたりから、毎回これが【最後】というくらいの気持ちで企画を続けてきた。自分の非力さを痛感してきたし、時代と企画内容がずれる感覚はますます深まる中、あれから、10年企画が続けられていることに関しては、私自身驚いている。もう十分という気持ちもある。
 
企画には経済的なことがどうしても付きまとうので、私ごとき一庶民ではなかなかに難しい。だが時代の足音の不気味さは、脳天気な私でもちょっと気味が悪すぎる、何かしなくてはとの思いがやまないのだ。ことさらブログで書く必要もない気もするのだが、うまく書けないのでこれ以上書くのは控える。雨音に耳を傾けながら、単細胞企画者は悩む力のある今を生きる。

 
人間は変化する、これから生きて何をするにせよしないにせよ、今回の企画でこれが最後という感覚は、ますます強くなってきているのは確かである。

 
不毛の世界というのか、限りなく土から遠く離れた、現代都市文明をひたすら享受、消費してきたわれわれは、やがて大きなつけを払うしかないのかもしれない。心がカラカラ、命の輝きが限りなく見えなくなった時代の中で、お金という魔物にしばられまっとうな感覚を見失い、限りなく演技し続けるしかない存在と化してしまう恐怖。

サルドノさん独特の動き(ルーツが異なる若い女性ダンサー3人との一人一人の共演もすごかった)、ダンスとペインティング、土取さんのパーカッションの多種類の音色の響きは、私の魂の奥深くを揺さぶり、そのことを恐ろしいまでに表現し伝えていた。最高にかっこいい年上のお二人が私に勇気の鼓動を吹き込む。

 
土取さんや私の尊敬する方々はあきらめてはいない。私も企画はともかく、私自身を辞めるわけではない。【オロ】というフィルムの中に籠められている何かを感受する感覚がかろうじて私の中にこの数十年の生活の中で生まれてきた。皆で火を囲み、同胞で歌を歌うシーン、人が人を思いやる神髄のような場面、おばあさんの歌、手と手が(過去と未来)重なり合うシーン。(説明は野暮です)

 
何かを見るということは、自分自身もまた作品から見られるということを意味する。自分自身が問われるということの重さ、感覚は脳天気な私でも無くしたくはない。

その感覚を共有できる感性の持ち主と、これからの人生を歩みたいとおもう。珍しく遅く帰ってきた、私の机の上に、とある介護の事業所から、仕事内定の通知が届いていた。

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿