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2013-08-27

谷川健一先生のご冥福をお祈りします


雨が続き、乾いた私の心にもいくばくかの潤いがもどってきた。暑さも一段落し、この数日は、気持ち良く眠ることができた。

 

私はクーラーをよほどのことがないと使わない、落ちてゆく代謝がますます悪くなるし、(熱中症の原因だと思う)クーラーの利いた部屋から出る時の、あの何とも言えない、湿気がまとわりつくような暑さを感じるのが嫌なのである。だから、水分を補給しながら、汗をかける自分の体を、なんとかキープし秋を待ちたいと考えている。

 

さて一昨日、もうおそらくこのような民俗学者は出ないであろうとおもわれる、谷川健一先生がお亡くなりになった。私ごときが何も書くことはないのだが、まだ東京に住んでいたころ、桃山さんと土取さんが、岐阜の郡上八幡に創られた芸能堂、立光(りゅうこう)学舎で行われた催し、伝でん奥美濃ばなし、のゲストとして来られていた際、御眼にかかったことがある。

 

桃山さんに紹介されたのであるが、無知蒙昧丸出しの私は、谷川民俗学と呼ばれるまでの、氏独自の、深い民俗学世界のことをまるで知らなかったし、いま持って爪の垢くらいしか知らない。だが、あの時の独特というしかない大人(たいじん)の雰囲気、オーラは、私の中にくっきりと残っている。ご冥福を祈る。

 

九州は熊本の出、92年の人生を終えられた。この5年間で、つぎつぎと大きな仕事をされていた方々がお亡くなりになるのを、間接的に知ることが多くなってきた。最近の私は両親を含め、死者たちと暮らしているというような感覚が、私を支えている。

 

話は変わり、若いころは、根気と才能と体力(今も体力には自信がない)がない自分に、嫌けといら立ちを覚えたりもしたのだが、世の中がバブル全盛のころ(今考えると)30歳間近、あらゆることに行き詰まり、31歳で倉本聰氏が設立した、富良野塾に参加した。そこで私は何も考えず、(新聞もテレビもない)ひたすら3年間身体を動かした。

 

卒塾した私は34歳になっていた。それからの私はどんな仕事であれ、何をやってでも食ってゆけると胎をくくれたように思う。

 

5人兄弟の4番目、18歳で小志を抱いて上京はしたものの、ただ働くだけでも大変なのに、その上夢みたいに演劇を学ぼうとしていた自分の無謀さが、今となれば充分に理解ができる。がしかし、もう一度青春時代に帰りたいかと問われれば、私はノーと答えるだろう。

 

いまこの年になりおもうことは、やはりいくら無謀でもあの時、自分はあのような選択してしまったし、生きて挑戦したからこそ、あらゆる独学的時間を過ごしたればこそ61歳の今の自分を迎えることができているのだともおもう。

 

ふりかえり富良野での大地に這いつくばった体験が大きいと、今思う。再びの東京暮らしで現在の妻と出会い、いよいよ私は上昇思考ではなく、下降思考する人生を考えるようになっていった。東京から、岡山への移住を決定的にしたのは、娘が生まれたからだ。

 

親子3人静かに暮らしたいと、痛切にあの当時考えた。富良野を通過した私には、何をやっても生きてゆく自信のようなものが、遅まきながら生まれていた。過去と決別し一から
新天地でやり直す覚悟ができ、私は美星町の中世夢が原に職を得た。運命とはまさに一寸先は分からない。

 

その娘が、この21年ひたすら夢が原で働いているうちに我々夫婦のもとを巣立っていった。下の娘も、大学2年生である。巣立ちは近い。

 

そして今、退職して5カ月が過ぎ、いよいよもって私は妻と共に、下降してゆく老いの時間を、どうしたら前向きに生きてゆけるのかということを、うすらぼんやりと思考している。

 

 

 

 

 

 

 

 


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