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2013-08-21

戦後68年の夏、61歳私自身の貧しさを考える


この夏はというには、まだ今日も暑い夏が続いている、お盆も終わり娘たちも帰京し、約2カ月ホームステイしていた、ロシアの娘さんもいなくなり、我が家はにわかにがらんとしている。

 

極めて個人的な、一庶民の他愛もない自己慰安ブログ、五十鈴川だよりなれど、ときおりはやはり、書かずにはいられなくなるようなことが湧きあがってくる。何か理屈ではない整理しきれない感情があるからこそ、企画したり書いたりもしているのだ。そういうエモーションがなくなったら、以前も書いたが私は静かな暮らしに帰依するつもりでいる。

 
朝一番、新聞の一面に、漏えい汚染水300トン、福島第一タンク、計24兆ベクレルという文字が飛び込んできた。

 
ブログを書くつもりはなかったし、正直この暑さのせいばかりでもないのだが、能天気な私にしては珍しく、気分が何とはなしに沈みがちになってしまうことが多い世相の中で、介護の勉強や、個人的な独学勉強、そして今を生きる生活をしながら、なんとかしのいでいる、といった按配の夏なのである。

 

この10年くらい、個人的な気休めというのか、自分でもよくはわからないのだが、休日落ち着いて、新聞の気になった記事を切り抜いたりすることを、量ではなく、ほんのわずかでも、それをすることで、世界と交信し独学する感覚を失いたくはないような心持で続けている私がいる。

 
そんなノートが、知らず知らずのうちに随分と溜まっている。このインターネット時代に何をしているのであるかと、我ながら砂をつかむような徒労感を覚えながらの、自己慰安切り抜きなのである。

 
ところで昨日、40数年ぶり、黒沢明監督の、【生きものの記録】誰もいない家で、午後汗をかきながら独りで見た。1955年に創られているから、私が3歳の時の作品である。後年上京後、私が映画館で見たのは19歳である。

 
答えはないものの時を超えて感動した。いまの自分の中にあの頃の感受性が残っていることが確認できた。黒沢明監督の作品に、田舎の少年だった私は、多大な影響を受けて育った。(おいおい拙くても書けるときに書いておきたいとは思っている、それくらいしか
私は娘たちに残すものがない)

 
愚直なまでにストーレート、時に生き苦しいくらいである。画家としての本質がゆるぎない画面、白黒なのに色を感じる、ツヤ、張り、陰影、アップ、音、長回し、俳優のすべてを引き出す能力、限られた予算、技術、興業的にヒットしなければ、次がない重圧。まわりに多大な迷惑(本人はいい作品をとることしか眼中にない、芸術の神に殉じている。またそんな映画バカしか黒沢組には集まらない)をかける。黒沢作品の中で興行収益がもっと悪かった作品といわれている。

 
話を戻す。被爆、放射能、核に関する、記事を切り抜くことが、量ではなく3・11以後増えてきた。実感できなくとも、想像力を鍛え、ささやかに企画をするバネを養いたい、一人の庶民として呆ける直前まで続け、考えたい。

 
改憲論議がかまびすしい。経済発展とは何か、世界の幸福とは一部の者たちのための幸福なのか、先の大戦でなくなった、日本だけではなく、北東アジア、アメリカ兵、ごく普通の庶民も含めた、何百万にも及ぶ死者達、とどめは人類史上初めて我が国に落とされた、原子爆弾。累々とした屍、人命とは。死者たちは語らない、(語れない)身を焼かれ切られ、経験した者にしかわからない灼熱の最中の、地獄の痛みと飢え。こんな不条理をしてはいけないと、私は学校で習ってきたし、両親も繰り返し、戦争はしてはならないと私に語ってきた。

平和を享受し、今を生きる健康なわが身としては、両親の遺言は守らなければならない。

 
戦争には勝者も敗者もなし、誰かの命令で縁もゆかりもない方々と、殺し合いをする(今もシリアやアフガニスタンなのでは、生活のため生きることが不可能なため、傭兵となっている現実)不条理、暗愚というしかない。大義とか正義のために、他者の命を奪うこと、頭の悪い私にはなんとも理解が不可能だ。

 
以前も書いたが、私はアメリカの占領政策が終わり、日本が再び独立国家の体をなした年に生まれた。戦後68年の、61年間を平和裡に生きて来られたものとしての有難さを、ささやかに歴史を学ぶに従って歳と共に痛感するようになってきた。

 
だからハッキリと、今ここに書いておきたいのだが、この平凡な平和を脅かす、改憲論者たちの言動には、耳を澄ませないと、何よりも自分たちの未来や子供たちの未来が(自分の国のことだけを考えている時代ではとっくになくなっている、人類存亡の時代に突入している)大変なことになるというのが私の認識だ。

 

チェルノブイリ、福島、そしていまも世界中で行われている核実験(70年間くらい)の死の灰は、あまねくこのなんとも美しい水の惑星を、蝕み続けている。人間がが作った核汚染物質、放射能は、見えないけれどゆっくりと姿を現し、生きものの生命を、特に赤ちゃん子供の弱い命をむしばむ。【生きものの記録】のラスト、赤ん坊をおぶった母親と志村喬が階段ですれ違うシーンは秀逸だ。

 

お金と物にむしばまれ、特に戦後、命が軽んじられや大切な事物の価値が逆転してきた、という気がしてならない。その渦中のほとんどの時間を生きてきた私もそうである。そしてその現実の前で、私自身アップアップの夏を過ごしているのだ。

 
気がつけばきれいな海や山を(私の記憶の中の原風景は、かろうじてアスファルト化される前の、手つかずのきれいな、海と川だった)見に大枚をはたいてよその国にまで出かけてゆくような、世界遺産ツアー時代となり、行った先の人びとの置かれている現実には、とんと想像力が及ばなくなりつつある。

 
この私自身の貧しさをこそ、この年にして私は見据え続けてゆかなければならないという気が311以後してきている。考えることには、何も要らない。

 

 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

 

 

 

 

 

 

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