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2013-02-16

藤原新也さんのブログを読んで考える朝

娘と怜君ともにクッキーを作っている(2・14)ブログとは関係ありません

起きて藤原新也さんのブログを読んでいたら、なんとも信じられないようなフクシマの南相馬でしか聞くことができない話がアップされていて、何やら気の重い、憂鬱な気分での朝ブログである。

 

何か書かずにはいられない。私ごときの個人的能天気ブログは、極めてありきたりな、自分も含めて、何か今日一日を、元気に暮らしてゆけるような、気持ちが一歩前に向かえるブログを書いてゆきたいとは思うものの、いろんなことを知るにつけ、なんとも暗澹たる思いにとらわれる。しらぬが仏というのは真実でもあるという、表裏の感覚。

 

世界で唯一の被爆国である日本。ソフトボールくらいの大きさで、何万人もの人を一瞬であの世に送り、その後もヒトを含めた多くの生き物が後遺症に苦しむ、悪魔というしかない多様な核爆弾。(私が高校生の頃ベトナム戦争が泥沼化していて、その映像を見た多感な私は、人間のやることにおぞましさを覚えた、市街戦、裸で逃げ惑う少女の写真が脳裏にいまだ焼き付いている)

 

北朝鮮の核実験のことも、私のブログでは触れていませんが、もうどんなことが起こっても不思議ではないという、ある意味では悲観的に過ぎるかもしれない感覚は、9・11以後私の中にはある(世界の不条理に対するやり場のない暴発の連鎖)

 

しかしヒトはやはり、生きている以上前向きに生きる、肯定的に生きるというのが庶民思想の私の考え(でないと生きられない)。藤原新也さんは、明日地球が破滅するとしても花を植える、というマルチンルターの言葉を引用しているが同感する。

 

これまで大国米ソ、をはじめいわゆる核を持つ先進国といわれる国々は、気の遠くなるほどの数の核実験を、この美しい水の惑星で、今も行っていると現実にたいして、私自身を含めての鈍感さは、いかんともしがたい。がさて、どのようにそのことを実感を持って、真摯に考えたらいいのかということについて、限りなく途方にくれてしまうのである。

 

でも考えないといけない。おそらく産業革命以前の地球は信じられないくらい美しかっただろうと想像する。47億年の地球の歴史から、わずか数百年で、緩やかにあらゆる人類が生み出したゴミと核汚染の水の惑星へと、刻一刻流転しつつあるのだ。

 

命の未来ということを考えるなら、猛毒プルトニウム(消えるまで2万4000年)を内包するあらゆる原子力、核エネルギーは、不要と考えるのが、単細胞な私などの考えだが、そうは単純にゆかないところが、魑魅魍魎の人間世界の厄介なところだ。

 

口で言うことはたやすい。オロも含め、何かアクションを自分の中で起こすことで、荷が重いけれども核についても考える企画を今年何かやりたいと、思わずにはいられない。

 

 

 

 

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