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2023-10-08

突然の秋、とにかく適応し頭を切り替え、日々を生きる。

 一気に季節が進み、すこし戸惑いつつも、私にとってはありがたい秋の到来である。手術後弓の稽古を諦め、(もう2年半になる)好きなシェイクスピア作品他、書写を折々やっている。だがこの夏の間まったくといっていいほどやる気が起きなかった。だが10月2日から再開している。

主に10行以上のなが台詞を書写しているのだが、長台詞が少ない作品は8行までを書写している【冬物語】の5幕から再開、それを終え今【尺には尺を】(この年齢で読むとまた味わい深い)第3幕の途中であるである。口のなかでぶつぶつ呟きながら、長い台詞のところになると書写をする、といった案配で進んでいる。

まるで尺取り虫のように書写していると、一人時間が瞬く間にすぎてゆく。灯火親しむ秋、私にとっての秋の老齢時間の過ごし方が実現できている。頭の中を涼しい風が吹き抜けるかのように書写をするのが楽しい。手を休め、松岡和子先生の丁寧な注釈を読みながらゆっくり読み書き進むのだが、幸いにして一人時間には事欠かないので、まさに言うことがない。

小泉八雲と節、私はこういう小説に弱い

書写の効用は、生活の面でも微妙な変化が芽生えている。せっかちな私なのだが、万事何事にもゆったりと(しか出来ないのだが)を楽しめるようになってきている。(気がする)五十鈴川だよりだってゆったりと、画面を開くまでなにも考えていない。

ただ、思い付くよしなしごとを手がかってに打っているだけである。一行打って又一行、枯れた落ち葉がはらりはらりと落ちて地面にたまるように、何とはなしにその日の五十鈴川だよりが生まれるといった塩梅。

ところで書写をしていない長い夏の間、生活、労働だけをしていたのでは勿論ない。枯れつつも本を読むのが遅い私なのであるが、この夏はふるさと帰省や、長野への往復などでの非日常時間涼しい電車のなかで、随分と読書が出来た。今年の猛暑を乗り越えられたことは、来年からの夏の過ごし方の過ごし方のヒントになった。夏の移動読書は最適である、ということをこの夏はひときわ学べた夏となった。

若い頃誰だったか、読書は真の体験足りうるか、といった議論がなされたことがあったと記憶するのだが、私にとって読書はまさに体験足りうる。本を読まなかったら旅をしようとは、私の場合まったく思わない。旅と読書はほとんど同義なのである。旅では思わぬ意外性が起こるし、意外性と好奇心こそが心身の健康には欠かせないのである。

要は加減、塩梅、日常生活と非日常時間とのさじ加減、バランスこそが大事なのである。そして眠りこそが薬、私はとにかく肉体労働者なので体調管理には(とくに術後)気を付けていて、体が疲れたら横になり眠るのである。見たいテレビなどがあっても見ない。体第一である。そのために時代の話題についてゆけなくても、まったく頓着しない。

無為を楽しむ。体が喜ぶこと、気持ちがよくなるようなことに集中するように心かけている。書写も続けていると疲れる。あかんと思ったらほかのことをし、気分を変え、体を休めまた進む。楽しいから続けられる。無理はもう決してしない。

古希を過ぎたら義理を欠き、他者に迷惑をできる限りかけず、一人遊び時間をこそ大事にしたいと想う私である。

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