ページ

2023-04-07

坂本龍一さんの訃報に接し、想う春の雨の朝。

 まったくほとんど別世界に存在していたかのような、だが遠巻きに常にその存在が、好き嫌いではなく気になる人であった坂本龍一さんがお亡くなりになった。わたしと同じ年である。

生まれ育った環境があまりにも異なるのだが、同世代、同じ年というのはやはり特別な感慨をどうしても抱いてしまう。それがなぜなのかを言葉にするのには、時間がかかる。

チェルノブイリの近く、汚染された大地の村に泉が涌き出ていて、その泉からは放射能が検出されず、その大地で生きる村人たちの生活を描いた本橋成一監督の【アレクセイと泉】というドキュメンタリーを上映、自主企画したことがあるのだが、その音楽が坂本龍一さんであった。

当時、アカデミー賞音楽賞等を受賞したりしていた世界の坂本が、このような小さなプロダクションのフィルムに音楽をいれていることにビックリした記憶がある。お金とはまったく縁遠い、早い話お金にはまったくならないような仕事でも、きちんとやられていたその生き方や姿勢に驚いた記憶がある。それと折々の発言に。まさに時代と格闘する稀な音楽家であった(を亡くしてしまった)。

話に脈絡がないが、坂本龍一さんはウクライナでの戦争や、東北の津波大震災、また環境問題他、世界の痛みや困難な状況を生きている人々への、分けても未来の子供たちへの音楽家としての及ぶ限り静かに発言、動き実践、支援活動を続けておられた。

凡人には遠く及ばないような生き方、活動をされた方、たまたま同じ年であったにすぎないが、余計な感傷抜きにしても、なぜこうも病魔は惜しい才能を早世させてしまうのか、理不尽な思いにとらわれる。

先日の大江健三郎さんの訃報ほか、このコロナ禍の数年でわたしの耳に届いた、何らかの形で影響を受けた方々の訃報は、古稀を過ぎた体にずんと響いてくる。摂理としてたんたんと受け入れるにはあまりにもの切なさが染みるように、わが体にまとわりつくのは名状しがたい。

直接あったり見たりしたことがなくても、わたしにとっては【アレクセイと泉】の音楽を担当した方、なのである。そこに勝手ではあるが核時代が生んだ音楽家、核時代をどこかで意識共有していたかのような、錯覚にもにた一方的な想いをわたしは持つのである。

人類はどこに向かってゆくのか、平和と戦争、幸福とは何か、そして人間とは何か、人間は嘘をつき、己を正当化する生き物と定義することは容易い。お亡くなりになる前、ガンにおかされてから、人生観が変化された事をのべられていた。

宝の本となりました

今わたしは生きて五十鈴川だよりを打っているが、後数ヵ月の命だと宣告されたらどのように生きて行くのだろうか。雨、風、花、空、海、お日様、土、孫たちの輝き、鳥たちの鳴き声、この世の天国と地獄。生と死。死は確実にわたしにもやって来る。慈愛という言葉がある。

お会いしたことがなくても、どこかで身近に感じる方がいる。素敵な人だと感じ入ることがある。そのような方たちから学びながら老いゆく路を見つめ歩きたい。




0 件のコメント:

コメントを投稿