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2023-04-15

腎臓ガンにおかされている兄が、多嘉良カナさん、私の企画にやって来る。そして想う雨の朝。

 いよいよ4月23日まであと一週間となった。当日の受け付けや会場のボランティアしてくださるかたの役割分担、当日のリハーサルの流れ、等などを今日と明日できちんと決めれば、あとは一人でも多くのかたが足を運んでくださるのを待つばかりである。今のところ私と妻のほかに、8名のかたがボランティアしてくださることになっている。本当にありがたいことだと思っている。

妻が育てた雨に濡れるウララ

話は変わるが、先日富良野塾で私の後輩である今は茨城県のつくば市に住む0氏から、卒塾後37年ぶり、思いもかけぬ長いお便りをいただいた。それは私の現在、近況を知らせるために、一文と多嘉良カナさんのチラシを送ったのがきっかけであったのだが、よもやまさか、あんなにも心のこもった便りが届くなどとは思いもしなかったので、驚くと同時に感動したのである。

その事があって、多嘉良カナさんを企画しなかった、このようなお便りをいただくこともなかったであろうし、古稀を過ぎて尚、新たな出会いや、再会や、旧交を暖めるという人生の慈味とでも言うしかない、この嬉しさの感覚は企画したからこそもたらされたのである。

それと、なんといっても嬉しいのは長男の兄が、ふるさとから観に来てくれることである。兄は私よりも6歳上だから、今年77歳になる。生まれたのは今の北朝鮮、平壌の隣の新義州、若かった両親と3才の姉と4人で引き揚げてきた。(これた)5人姉兄弟、私を含めた3人は戦後生まれである。人はみな生まれ落ちた大地、環境でいきる。厳しい父親優しい母親(本当に信じられないくらい役割分担がはっきりしていた)のもとで我々5人は、昭和39年まで共に過ごした。今となっては貧しくも記憶の宝がつまった幼少期を、わが姉兄弟揃って過ごすことができたことのありがたさを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

姉兄次兄とは父親の転勤のために、小学校6年から別々の人生時間を過ごすことが多く、私が社会に出てからはほとんど別々の人生時間を生きてきたがために、その後共通の話題を持つことが少なくなっていった。

だが長兄とは私が高校時代、親父に反抗して夏休みヒッチハイクで宮崎から東京に行き、当時大学生であった三軒茶屋の兄の下宿を突然訪ねたときのことなど、(あのときの驚いた兄の顔が忘れられない)今となっては宝の思い出がよみがえるのである。

あれから幾年月、兄も私もその後の人生を乗り越え、子育てを終え、孫にも恵まれ、この10数年のあいだ、年に数回帰省する度に兄の家にお世話になり、義理の姉の手料理を毎回美味しくいただきながら、兄との関係性もいい感じで推移していた矢先、兄は腎臓ガンにおかされたのである。それもステージ4である。

だが兄は宣告から1年半、生き延びている。そしてその兄が多嘉良カナさんの、私の企画に来るという、初めてである。人が善く優しい人に好かれる兄である。男兄弟ケンカもずいぶんしたが、晩年、お互いの家族がおだやかに生活でき、この数十年はそれぞれの子供の結婚式にも参加し、よき関係性を持続している。

その兄が、病を抱えながら弟の企画に駆けつける。兄なりに戦後を生き、兄弟にしか感知しえない万感がある。昨日兄から手紙が届いた。40才、私にとって人生の起死回生の職場となった中世夢が原にいってみたいと綴られていた。多嘉良カナさんを終えた翌日、私は兄に中世夢が原を案内する。

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