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2023-01-23

故、マルセ太郎のお嬢さんと初めてお会いし、催しに参加し、再びマルセさんと再会したかのような、五十鈴川だより。

知る人ぞ知る単なる芸人という枠ではとらえきれない、日本の風土からは決して生まれないであろうマルセ太郎さんがお亡くなりになって、もう20年以上の歳月が流れたのだなあ、とある種の感懐に耽っている。
1995年にサインしてもらった宝の本


40代無我夢中で企画をしていた頃、私は中世夢が原と、私が住んでいる西大寺で3回ほど企画している。私がなぜマルセ太郎さんを企画できたのかについては、詳細は割愛するが、今はなくなってしまったが、1970年代当時、渋谷の山の手協会の地下にジャンジャンという客席数100の小劇場が在った。

そこで当時シェイクスピアシアターに属していた私はジャンジャンで芝居をやっていたのだ。その小さな小屋では、今想うとまるで夢のような出来事が、毎夜にわたって熱気が渦巻く志のあるイベントが行われていた。ここで、私が学んだことが、今の私を支えていると言って過言ではない。マイナーではあるが、一家言ある多分野の音楽家、舞踊家、芝居等が、日替わりで(長いものでも5日くらい)催されていた。

そこで私はマルセ太郎という芸人の存在を知った。だがジャンジャンで見た記憶はない。話は飛ぶ、40才でまさか岡山に移住し、企画の仕事をするなんてことは、当時当たり前だが知るよしもなかったが、事実は小説よりも奇なり、私はいきなり企画することになって、しまったのである。

中世夢が原で自分がやりたい、企画したい人に、なぜかマルセ太郎さんが頭のなかにあった。なぜなのかを打つと長くなるので控えるが、一言で言えば私にはテレビで見る他の芸人さんとは、一線を画すという他、いいようのない独自の雰囲気、誇り、矜持のような存在感を放っていて、気になる存在で在ったのである。何よりもそのスクリーンのない映画をまるごと語る、という誰もやったことのないその芸を、一人のファンとして企画すれば見ることが叶うと思った単純な動機でやったのである。私の、直感は当たった、たじたじとなるほどに。

私が企画した当時、マルセさんはすでにガンを公表されていた。西大寺で企画した【生きる】は黒澤明監督の言わずと知れた名作、主人公は胃ガンを宣告されている。その作品をガンにおかされておられながら、語るマルセさんを今となって、若輩者の私がよく企画した、できたものである。われながら無知の強さがあった、のだ。なにかが、当時の自分をつよく動かしていたのは間違いない。

さて、月日は流れ昨年暮れ、マルセさんのお嬢さんの梨花さんから突然お手紙をいただき、初めて昨年末、岡山駅のコーヒーショップでおあいした。ほとんど私のはなしに終始したのだが、主に中世夢が原での時代の話に、梨花さんは辛抱強く耳を傾けてくださった。

そして先日今年初めて、2回目のお便りがあり、そのなかに、マルセさんがお亡くなりになって以来,神戸で継続的に続けておられる文忌(もんき)という催しのチラシが同封してあったので、昨日神戸まで出掛けたのである。
梨花さんから送られてきたチラシ


午前11時から、途中昼食タイムをはさみ、終わったのが午後5時近く。改めての自分の無知蒙昧さを時おり感じながらも、マルセ太郎という不世出の哲学的芸人を無我夢中で、当時企画できたことの喜びが自分のなかに込み上げてきたことを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

そして想う、数十年ぶりに、梨花さんとお会いできたことで、(ご子息の竜介氏のお話も実に素晴らしかった)ささやかだが、熱い企画がコラボできるのではととの希望が古稀男の体に生まれている。マルセさんはおられないが、ご家族始めこのような催しを定期的に継続しておられる方々のなかに、しっかりとマルセさんは生きて存在している。そして気づかされた。改めてマルセさんから学ばねばとの想いを胸に神戸を後にした。

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