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2021-11-04

たまたま図書館で桂小三治師匠の自伝的遺された言葉を読み打たれました。心の師としたい方です。

昨日夕方の雨が降る中の日没

 生活暮らしの中で私がもっとも出掛けてゆくところは、何と言っても図書館デアル。とくにこのコロナ渦中では、閉鎖されているときにはもちろんゆけなかったが、昨日も午後出かけた。

図書館散歩といっていいくらいに、平均すれば2週間に一回は必ずといっていいくらい出かけている。借りたい本があるなしにかかわらず、出かける。ゆけばなにがしかの本に必ずといっていいほど、巡り合う。さあ、今日はどのような本にめぐりあえるかと、ささやかにうれしいのである。

もう十分に老いてはいるのだが、いまだ在り難いことにどこかしらときめく自分がいる。この胸のときめき、歌の文句ではなく、これがなくなったらおそらく生きている甲斐がないとまではいわないが、極端に物悲しくも、寂しい人生になることは自明だろう。

だからなのだろう、音読自在塾を始めたのは。自分で自分を 追い込んで(そのことを楽しむ余裕のある追い込みでないとまずいが)いまだどこか変身できる可能性の在りやなしやをはかっているのではと、自分では考えている。

生活に限りなく自己満足的な老いの潤い、精神のコラーゲンやオキシトシンの分泌を促すような、悪あがきじみたことに、現を抜かすなんてことを考えてしまうのである。もう老いた自覚の生き恥をさらして打つが、天上天下唯我独尊(限りなく謙虚に)でゆくことに、音読自在塾を始めた時に決めたのである。

胎が据わると、生活のメリハリにリズムができ、おのずと目的のようなものも生まれてきて、図書館に何か宝物を見つけに出もゆくかのような心持になるのが、なれるのがささやかなれどどこか好奇心が満たされありがたやなのである。

シェイクスピア作品を翻訳された小田島先生は、好奇心とは高貴心であるとの名言を残されている。これでゆくのだ、男一人細身を引きずり、風に吹かれてよたよたと、だが足はしっかと大地をつかみ、踏みしめ、カッコつけて頑固にと、願う私なのであります。

とまあ、ここまで打ってきて思うのは、今日もまたいけしゃあしゃあと、五十鈴川だよりが打てる幸せを噛みしめるのである。今日午後は音読自在塾のレッスン。明後日からは3泊4日上京する、往復新幹線の中で読む本は借りることができた。

突然話は変わるが、今は亡き桂小三治師匠の本に巡り合ったのも図書館だった。昨日夕方、過日逝かれた桂小三治師匠をしのぶ再放送番組を民放BSで見た。生で見ることは叶わなかったが、間接的にカッコイイあこがれの噺家だったので、しっかりと眼底に焼き付けるように見た。存在そのものが匂い立つ。生き方に一本筋がピーンと立っている。声が話し方が人生そのもの。地面近くに名もなくもすっくと咲いている誇り高き花。立ち上がる姿、目つき、後ろ姿、私にはすべてがカッコイイ方としか言いようがない。

お亡くなりになる5日前まで高座に上がり続け、自分で自分を叱咤激励し続けた見事な生涯に、拍手を送りたくなった。爪の垢でも学ばねばと、音読自在塾を始めたばかりの私は、これでまた一人、私の背中を押してくれる黄泉の国のかたがたの存在を、五十鈴川だよりにしっかりと打っておく。(遺された師匠の噺をこれからしっかりと耳に刻みたく想う)

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