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2021-11-16

生まれて初めてかすかなめまいを覚える最近の朝に、世界の不条理に初老凡夫はめまいを覚える。

 一昨日の朝起きるとき、人生で初めてめまいを体験した、実は昨日の朝も、今朝も軽いめまいを感じたのだが、起きて歩いていると普通にふらつかなくなるし、昨日は普通に肉体労働も、おとといは音読自在塾のレッスンもでき、今朝もこうして五十鈴川だよりが打てるし、労働したいという気持ちほか、やりたいことができることにはことさら変化はない。

写真 BY K・YOSIHARA
ただ改めて今更のように思うのは 、わが体にある種の異変が生じれば、普通にできていたことが、まったくできなくなる年齢なのだということのあらためての自覚の深まりである。このように当たり前のように打っている五十鈴川だよりも、ぱたりと打てなくなるということである。

そのことは、3月の手術入院で一度経験している、その経験があるがために、いつ五十鈴川だよりが打てなくなっても、さほどの後悔はないが、音読ができなくなるのはやはり困るので、ひどくなる前に一度医者に診てもらおうかとは思案中である。

だが今朝は五十鈴川だよりが打てる心と体がある、ほっとしている。悲しいかな私は自分中心にしか、物事をとらえられない哀しい性を、生きている。

話を変える。昨日夕飯中、コップ21、温暖化のニュースや、アフガンの人たちのかなりが、食い物がなく冬が越せないのではないかと 、危惧する報道が映像と共にながれた。一方で大谷選手の報道など。私はこの数十年、いつもあまたの世界に関する報道を耳に、映像で間接的に、目にするのだが、自分の感性がもはや、無感覚、無痛覚になってきているのではと、危惧している。(だが老いの身で何かしたいと思案している)

ことさらなことは何もできなくても、いつ何が起きても不思議ではないほどに、世界の持てるものと持てないものの、複雑精妙な強欲資本主義のからくり構造、初老凡夫の頭では到底立ちうちできないほどに、広がっていることの不条理を、ごまめの歯ぎしりのように打っておかねば、どこか人間としてやるせなく、忸怩たる思いである。(もう半世紀以上にもの長きにわたって私の中世夢が原ほかでの企画は、このやる瀬なさが生み出したものである)

持てる者が持てないものを見下ろして着飾り平然としていられる感覚の分断、せめてあまねく、全地球上に存在する民、人類が飢えない程度の人道資本主義、民主主義が行き渡るような仕組みを、構築できる人物の出現を想うのは、私だけではないと考える。

こんなことを打っても、虚しさはつのるが、そこはおおらかに絶対矛盾的に大空を友に私は何人かの信頼できる知人友人に声をかけあるいは、一人ででも音読したりせて、(コロナ後実践してゆく準備をしている)不条理極まる世界の、もっと打たなくても、人類がこの先、未来の人たちが安心して生きてゆけるための、環境を遺してゆける英知をこれからの10年で築かないと危ないと、どこか多くの心ある方が、漠然とした不安感を抱えながら生存しているのではないかと、私もその一人である。

SDGs、ひょっとしたら時すでに遅しというところまで来ているのかもしれない、というは嫌なおもいの深まりは、私自身がCO₂を出す車に乗り続け、プラスティック製品を日々買わないと生きられない資本主義社会経済にからめとられているゆえなのかもしれない。

だがまだ間に合うのだという側に立たないと、という淡い願望を持つのは、孫の存在が老いの身にかすかな灯を点すのである。孫の存在は、世界の子供のこれからの未来と、ささやかに連動する。世界のあらゆる不条理に対して声を上げ続ける五十鈴川だよりでありたい。

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