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2021-11-01

写真家ユージンスミスの2本のドキュメンタリーをたまたま見ることができた、翌日の朝に想う。

 昨日は衆院選挙の投票日であり、私も投票には出かけたが結果はさほど山は動かずに終わったのではないかと、結果も見ずに床に就いた私には思える。今朝はまだ新聞が届いていないのでよくわからないのである。

それよりも、昨日の午後たまたま、午後2時からNHKBSで、写真家ユージンスミス のドキュメンタリーを2本たまたま見ることができた。そのことをわずかでも打っておきたい。私が見ていないだけで、2本とも再放送であるが、近年の番組である。一本は若き日の戦場カメラマンとしてのユージンスミスの足跡をたどるドキュメントと、もう一本は戦後民家を借り、水俣に棲みついて撮り続けた、貴重極まるとしか言いようがないドキュメンタリーフィルム。

この年齢でたまたま見ることができたことの好運、コロナ下で、おそらく自分の中になにがしかの変容が起こっているからこそ、このような稀な作品番組に激しく心がゆれうごくのだと、想える。

ユージンスミス、人間としてあまりにすごいとしか言いようがない地点まで紆余曲折の果て、たどり着いた時代が生んだ稀有な写真家、悩み続け、苦悩の果てに結果作品が残っているのだと、痛切に知らされた。老いつつも 魂を揺さぶられた。

このような珠玉のドキュメンタリー番組を創る時代に流されない、硬派の番組スタッフも存在することを、私はどこかで感謝しながら、そして私自身がそういった番組をチェックすることなく、見逃していたことに、内心忸怩たる思いもどこかで感じながら、それでも見ることができたことの感謝を、 五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

写真家ユージンスミスの有名な一枚の写真、(楽園への旅立ちというタイトルは知らなかったが)は記憶にあったが、彼のあまりのというしか言葉がない、第二次世界大戦アメリカ海軍の戦場カメラマンとしての履歴、南方の島や沖縄の激戦地でのライフの契約カメラマンとしての履歴、彼が若き日に目撃した無残極まる戦場の地獄(9割はアメリカの検閲で没収された)のことはまるで知らなかった。

私は今更のように、この年齢での自分の無知を思い知らされた。このようなおぞましいというしか表現不可能のような事実の、撮影したものの良心というしかない、敵味方をやがて超えて、ヒトはなぜ罪なき人をこうまで殺りくして、都合のいいように写真を選び改ざんできるのか、するのか、不条理な世界に、ユージンスミスが目覚めてゆく過程が伝わってきて、私はなんとも言えない、気持ちにいたたまれないおもいで、画面を凝視し続けた。

とくに遺作となった水俣の写真を撮る苦悩と葛藤の上に成った作品の崇高な神々しさは、どのようなコトバも超えて(むなしく)沈黙を迫る。ユージンスミスにしか撮りえない写真の素晴らしさに、私はどこか慄く。番組の中でとくに私が感銘を受けたのは、苦悩するユージンスミスの遺された声である。

水俣病で青春の自由のすべてを奪われた少女に語り掛けるユージンスミスの聲は、地底の底からの懺悔の聲のように私の耳には響いてきた。この2本のドキュメンタリーを見ることができたことの重さを噛みしめ、これから繰り返し反芻し、人間としての良心を一枚の写真に籠めたユージンスミスの写真をみつづけてゆきたい。

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