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2021-02-20

【梅の香に気持ち沈めて鼻よせる】お休みの朝に想う。

 珍しく朝寝坊し、ゆっくりと起きた。たまには休日こういう日もある。私は機械ではない。血が流れている、いまだ煩悩多き庶民初老凡夫である。

私はすでに何度か書いているが 、眠ることが好きである。寝てよく休んだ脳でないと、とてもではないと五十鈴川だよりは書けないし、書く気にもならない。新しい一日を、なるべく新鮮なニュウートラル状態でつづれればという、淡い思いがあるのである。

歳と共に何を綴ろうかなんてことも、ほとんど考えない。書いているうちに何やら文章らしきものがつづりたくなってきて、文が呼び水になって次第につづれている、といったあんばい。何を綴るのかが、判然としないから面白いのである。(今日はこのような五十鈴川だよりになってしまったという意外性、自分のおもい、無意識が顕現化してくる)

最近たまに読み返したりするが、自分が書いたのではなく、自分の中の何かが書かせているのだという気がする。だから書いてみて初めて今の自分の思考が整理され、いまだ揺れ動く初老凡夫の今のおもいがあぶりだされている。

どこか時ににやり場のない思いなども、書くことで自浄作用が働いて、気分が落ち着いたりするので、理屈ではなく、やはりわがままな内的発露なのである、と自己認識している。

と、話は変わるが、佐藤愛子大先輩や、おなくなりになってしまったが(生き方のお手本憧れる方)外山滋比古先生他、私がこれからを生きてゆく上での足元を照らしてくださる方の著書を手元に置き、中庸普通を旨とし、極端に走らず、庶民感覚を基本に老いを見つめたい。

だがいまだ、時に怒りが湧き上がるし、理不尽なことにはささやかにも老いの怒りを綴るくらいの気概のある五十鈴川だよりでありたいとも思う。コトバの上っ面でまことしやかに庶民を丸め込む不逞の輩(政治家の不毛な嘘・官僚の改ざん、企業人の改ざん、嘘の答弁、詐欺師、わんさか呆れ書ききれない)。丸め込まれる側にも問題がある、と小生は思う。

普段から、ゆめゆめ油断せず生きていないと、知らず知らずのうちに流され、丸め込まれる。話は変わるが、正義を振りかざし言葉尻をとらえ、ヒステリックなまでに鬼の首でも取ったかのように居丈高に、追求する輩も理屈ではなく、私はどうにも苦手である。

昔人に憧れる私は、現代人の聲の質がどうにも変容してきたように思えてならない。あらゆる分野の日本人の声に落ち着きがなくなって、軽くなっているように思える(のだ)。

かくゆう私もその任をまぬかれないという自覚がある。だからなのである五十鈴川だよりを書くことで自戒するのである。ではどうすればいいのかは、各人が考えるしかほかには方法がないのだが、地に足をつけての落ち着いた生活、とにかく体を使い、体を動かしながら考える癖を身につける(ように心かけている)、安易に体を甘やかさない。

 肉体労働、生活諸事、雑巾がげ、薪割、趣味の弓など体を 一日動かすと年相応にくたびれる。湯たんぽ抱いてぐっすりと眠れる。疲れればヒトは寝るのである。ほとんどの庶民昔人は栄養は足りなかったと思うが、ひたすら体を動かし、健康に生き健康に黄泉の国に旅立ったのではないかと、想像する。

私は祖先の昔人の生活をおもう。健康でなければ、長生きもむなしく感じてしまう、今の私だ。だから、私は孫の成長を見守るためにも、今しばらく健康なおじじでありたいと念うのである。




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