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2021-02-01

如月に入った朝に想う。

 如月。さあ今日から2月である。早く休むので必然の摂理、早く目覚める。頭と体がすっきりしていたら、睡眠が足りているので、まだ暗い中私はゆったりと始動する。電気をぱちぱちとはつけない。目を凝らして細心の注意をしながら家人を起こさないようにして、できるだけ暗い中、電気をつけないで一階に降りてコーヒーを入れる。

暗いのはやはりどこか怖いが、怖いという感覚が人間には必要であると考える。だからどこか謙虚になる。幼い時の原風景の記憶、暗い室内裸電球が灯っていた。だからなのだろう、あまりの現代のどこもかしこもの明るさが、私は苦手である。暗いと精神が落ち着く。

あまりの現代文明的蛍光灯白色文化に私がなじめないのはそのせいである。漆黒の闇は私を、いやがうえにも私を内省的にさせる。恐れながらも、私は闇をどこか愛する。

老いてくると、やがては闇の中に吸い込まれてゆく自分を、闇の中で感じ始めつつめざめ、命の在り難さを想い、さあ今日も一日生きようと、夜明け前の体に熱いコーヒーを流し込みながら、五十鈴川だよりを綴るのである。一杯のコーヒーが沁みる。

まさに闇の中で、五十鈴川だよりを綴るいっときの私は、時に昼間の自分とはどこか体の感覚が違う、別次元のさなかをさまよっているかのような趣である。自分とは刻一刻変化し続ける空っぽの器というしかない。

老いの深まりと共に、幼かりし頃の原風景感覚が 蘇るのはなぜなのだろう。幼少期の私の原風景の海山川には、空き缶やブラスチックのごみというものがまったくなかった。移動手段は自転車くらいであったから、それはそれはのどかで、周りの人々の所作や言葉遣いものんびりと閑雅であった。

今は昔、きっと私はいよいよもって現代文明、超ハイテクテクノロジー、便利快適社会からは置き去りにされてゆくに違いない。でもそれはそれでいいのだという思いが私にはあるのだ。娘や孫たち未来世代が新しい時代を生きて作ってゆくのを眺めるのが楽しみである。

さて、コロナウイルスの猛威のことも、このところの五十鈴川だよりにはほとんど触れていない。以前も書いたかもしれないが、移動したり、ヒトに頻繁にあったりすることがほとんどない初老凡夫生活なので、私の生活はさほどほとんどかわらないのである。

孫の成長する姿を時折眺められないのがつらいくらいで 、誤解を招くかもしれないが、どこかこの先の見えないコロナ渦中生活を、面白く生きるべく知恵を絞って楽しんでいる,のだ。

昨日も夫婦して春に植える野菜の土づくりのため、ほぼ半日畑の草取りをし、肥料をまき、ささやかな菜園場を小さな耕運機で攪拌した。土の匂いを嗅ぎ、手ごわい草と格闘し、鍬で縁を整えると、小さな畑が出来上がる。

バイト先の小さな菜園場。我々夫婦と犬のメルしかいない。穏やかな暖かいお天気に恵まれ、春を待ちわびながら厳冬期でさえ、根を張り伸びていた草が取り除かれた菜園場は、見違えるように変身。肉体労働の後の青空の下の熱いお茶がまたおいしい。

生きて在る事の、何たるシンプルさ。世の中に出て半世紀、突然のコロナウイルスの猛威は、この半世紀の私の過ぎし来し方に想いをはせさせ内省させる、またとない時間を与えてくれている。


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