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2020-07-26

夏の朝、鳴き始めた蝉しぐれを聴きながら想う。

私の一番好きな時間帯。夜明け前から白々と明けてゆくこの静かな時の流れ、川の流れにではなく時の流れに身をまかせる。朝顔が開いている。アサガオはコロナとは無縁な時の流れに身をまかせている。

植物、樹木ほか沈黙の生命体は、静かに生命を拓いている。私もコンクリートやアスファルトの裂け目に居場所を見つけて、今を生きているあまたの雑草群の生命力に力をあやかり、ややもすると沈みがちになる内なる気を引き上げる。

自分がいま生きている場所で、あのアサガオのように静かにたたずみ、沈黙の笑みを浮かべるべく存在したいと念うのである。柄にもなくまるで瞑想生活とでもいうほかはないような状況を今しばらくは覚悟する。

こないだも書いたが、世の中に出て半世紀たち、忽然と現れたこの新型コロナウイルスは、オーバーではなく、この半世紀を何とか生きてきた、これまで自分が生きてきた歩みの中で、身につけたものの見方や考え方を、根底から揺さぶりあぶりだす、かのように思える。

私のつたない語彙ではなかなかにその思いが伝えられないのだが、この4カ月にも及ぶシンプルな足るを知る生活とでも呼ぶしかない暮らしは、あらためて今現在を生きている私にとっての大事な事柄を再確認、再認識させる。
妻は草花を大切に育てる、学びたい。

本当に大切なもの、大切なヒト等々、大事なことは目には見えないと頭では理解しているつもりではあるが、コロナウイルスのおかげで、あらためて生活の細部の中での大事なものへの気づきが深まってきたような最近のわたしなのである。

話は変わるが、この4カ月、以前にもまして、妻と一つ屋根の下で過ごす時間増えた。そのことが結果的に、今はいいように流れている。(気がする)初老夫婦 の過ごし方の方法の模索という点でも、このコロナウイルス騒ぎは、いい意味での試練を与えている。

詳細は省くが、妻は以前から家の中での過ごし方が、どちらかといえば苦にならないタイプで、私はまったく逆、家にこもらないで外の風を存分に浴びるタイプでタイプであったのだが、このコロナ騒ぎは私の内面生活にも、にわかに変容を及ぼし、気が付けば私もかなりのオタクになってきたのである。

急激に環境が変わったり、状況が一変した時に、きっと人類は何度もそのような苦境を体験し、今も災害や難所、あらゆる局面に多くの人々が困難の差はあれ、直面している。

その多大な空前絶後の試練にいかに対応、変化できるかが、それぞれの年代で、各人各様生きておられるのだろう。私などの置かれている状況はギリギリには程遠いが、いつ何時明日は我が身、くらいの最低の想像力をもっていないと危ない。

とまあ、コトバでは何とでも書ける、要は根本の自分の体を動かし、(頼れるのは動く身体と心)老いゆく渦中の躰でも可能な範囲で無理せず鍛え、物事を考えないと机上の空論になる。ささやかに体を動かして実践しながら、考える癖をつけたい。

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