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2020-07-05

コロナ騒ぎのおかげで菜園場にいる時間が増えました、そして想う。・

お休みの日、うっとおしい梅雨のさなか、地球が自転し新しい夜が明け、私はしみじみ元気に起きて五十鈴川だよりを書けることが、こころから有難く、うれしい。

昨日の熊本県の大水害の映像を見ると、我が家が水害に在ったこともなく、この年齢まで悲惨というしかない体験をしたことがない私には、遭われた方の心中は言語を絶する。

だから、余計なことは書かない。ただわが故郷に近い、県境をまたいでの球磨川流域の大水害なのでとても、やはり心痛がおこる。過去にわが心の五十鈴川も氾濫したことがあり、今兄や姉が住んでいたところも過去には水没したことがあるというが、私が故郷で18年間過ごした間には記憶にない。
幸節館道場

今回も今のところ、五十鈴川は氾濫していないが、先ごろ帰省していた際もかなりの雨が降り、増水していた。まだ梅雨が明けるまでは予断を許さない状況がわが故郷でも続く。他人事ではない。最低の備えと、いざという時自分の体で判断し、動ける体力を一年でも長く持続したいと思う私である。

避難するとき、一番大変なのは赤ちゃんやお年寄りである。いつも思うのだが、バーチャルやデジタル時代を非難しているのではなく(今回のコロナ騒ぎで、一面、デジタルの素晴らしさを再認識している)我々はリアルワールドに存在しているというまぎれもない事実である。

リアルワールドのすごさは、非常時や緊急の時にこそその猛威のすごさを露呈する。そして人間の本質もまたしかりであると、自分に照らして考えるときにそう思えるのである。

だから、普段の生活が大切なのだと、一日一日をあだやおろそかに生活してはならないのだと、弓の先生は言葉ではなく、弓をひく姿で語っていた。私も遅まきながら還暦を過ぎ、子育ての責任を終え、死者の側の声に耳をそばだてるようになってきている自分を感じている。

今この世で起こっているありとあらゆる事柄 、事象はすべてつながっているのだとの自覚が深まる。限界はあるが万分の一でも他者の置かれた心中を思い至るような想像力を、持たねばと、なくしたくはないと自省する。

話を変える。この4カ月近くわが人生でこんなに人と接触しなかったのは初めてのことである。この先コロナ騒ぎのめどが立たない限り、長期的に私は他者との交流が極端に少ない生活を余儀なくされるが、覚悟して耐えるしかない。
オクラやきゅーりも育ち、妻がぬか漬けにしているが、これが旨い

が今のところ、私は一日一日があっという間に過ぎてゆく、以前とはさほど変わらない生活ができている。これまた有難いことである。アルバイト生活ができ、わずかな面積ではあるが菜園場のおかげで野菜の生育に好奇心が深まり、次から次にやりたいことが続くからである。

シェイクスピア遊声塾のレッスンがかなわぬのはさみしいのだが、一日は過ぎてゆく。ならば今やれることをやるしかないのである。やりたいことは見つかる。
見つける努力をするかしないか、老いつつも今しばらく、私はかってにハムレットにあやかりたいのである。身体が動ける間は動ける元気を楽しむだけである。

あとは沈黙、という世界が来るまでは バーチャルとリアルを往還し、静かにしかしじたばたするのである。野菜も苗を植え実をつけるまでには時間がかかる。手間や労を惜しんでいたのではいいものは育たない。

わずかな面積の土を耕したり雑草を抜いたりして土をいとおしむ。とまとやナスなどのを収穫して喜んでいる自分がいる。コロナ騒ぎは負の面ばかりではない。ことさら新しい生活などと、のたまう必要もない。先人たちがずっとやってきたことである。私に新たな気付きをこのコロナ騒ぎはもたらしている。

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