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2020-03-27

加熱するコロナウイルスメディア報道をしり目に、雨の朝、春を告げる草花の静けさに想う。

もうほとんど映像はみず、とはいっても海外からのBSでのニュース映像は時折見ている。映像の瞬間的な効力は文字とは比べ物にならないので、映像に弱い私は努めて見るのは避け、もっぱら文字で想像を働かせるように、コロナ報道に関してはしている。

私自身がこれまでの人生で経験したことがないパンデミッククライシスが、全世界で起こっている。主に弱っている高齢者に取り入るたちの悪い新型コロナウイルスである。

先行きの予測、事態がどのように推移するのかまったくわからいいま、私のような輩にできることは、静かに落ち着いて手の届く範囲での生活を心がけるだけである。衛生環境の悪い国々、医療設備の弱い国々の高齢者は、大変である。

誤解を恐れずに言えばなる様にしかならない。あらゆる種類のがんや、疾患と同じで自分がかかったら覚悟を決めるしかない、というくらいの今は認識だ。(ワクチンや新薬の開発を待つしかない)

年齢が上がるにしたがって身体は弱り、そこに病魔が忍び寄ってくるのは、ある意味自然の摂理だと思うからである。いくらお金を積んでも特効薬なんてものはないし、私のような生活程度のレベルの者は、いつも死とは隣り合わせくらいの覚悟が必要だとは思ってはいる。

だがいつも書いているが、当事者になったら慌てふためくのには違いない。ひとによってインフルエンザにかかる人もいれば、かからない人もいる。陽性でも元気な人もいれば、たちまち重症化する人もいる。ひとによってこうもちがうのである。

新型コロナウイルスはこれまでにない厄介なウイルスであることが、にわかぼんくらの私でもようやっとその程度の認識である。
玄関の花は季節によって妻が入れ替える

だからこの話題はこのあたりでよす、明るい話題をこそ私は望む。いたずらに情報に一喜一憂せず、くいなくいちにちを過ごすことにこそ、初老男は情熱を傾けたいと思うのである。老いの残り火をいかに楽しめるか、楽しめないのか、といったらカッコつけすぎか。

話を変えるが、とはいってもコロナウイルス 狂騒曲のおかげといったら言い過ぎかもしれないが、私にとってはマイナス面ばかりではない。それはより一段と、もっと言えば以前にもまして、死を意識するようになってきたのである。

先日妻と二人話し合って、孫の顔を見に上京したのは、万が一状況が一変したら会いたくても会えなくかもしれないと思ったからであると、今にしては想うくらいである。

この週末の不用意なお出かけは慎むようにとの要請が出る前であったので、一週遅れたら自粛していただろう。孫のお誕生会には参加できなかったかもしれない。このように、間一髪の決断に運命は左右される。人心は風のように揺れ、状況は刻一刻と変化する。

悔いなく生きる。悔いなく生きるとは?この数十年のグローバル化、都市化社会の根底を揺るがしかねない今回のコロナウイルスパンデミック狂騒は、一体全体何を語り掛けているのか、答えのない問いを、五十鈴川だよりを書きながら 想う。

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