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2019-10-22

歓喜と絶望のはざまに想う。

今日は午前中肉体労働はお休み、即位の礼だからである。まだ外は暗い。さて何を綴ろう。

もう10日近く前、日本対スコットランド戦が行われた13日私は故郷に帰省していた。前日の12日から当日、台風19号が主に関東以北を直撃、未曾有の多くの川が決壊するかって経験したことがないほどの水災害となった。

その日兄と共にスコットランド戦を見たが、その間完全に被災地のことなど念頭になく、画面に吸い付けられていた。

前回大会で苦杯をなめた相手スコットランドに、何としてでも勝つんだという執念は、被災された方々に、試合後あの笑わない男稲垣選手が少しでも勇気を与えたかったとインタビューで応えていた。
書評欄のイラストのカットがとにかく楽しみでした

おそらく被災された方々の多くはワールドカップどころではなかったであろう。一方で絶望的なほどの困難さの状況を生きる方々、方や歓喜につつまれるスタンド。これが現実の世の中である。

想像する、自分が被災し家を流され、肉親を失われたしたりしたら、ワールドカップどころではなかっただろう。悲しいかな残酷というほかはないほどに人間は(自分は)自己中心的な存在である。
他者の苦しみや、哀しみ痛みは、(喜びもまた)おそらく経験した者でなければ分からない。昨年夏の豪雨で、我が家のそばを流れる小さな川、砂川の上流が決壊し一部のエリアの家屋が水に浸かった。猛暑の中一日だけボランティア活動に行ったが言葉がなかった。

話は変わるが、人間は心も決壊する。自殺者の数はこの数年減少傾向にあるが、小中学生の自殺は増えている。いじめのニュースなどひきも切らない。教師が教師をいじめる、漫画である。なぜかくも弱者に対する思いやりなどが、退行する社会になったのか。

凡夫の私には遠く理解の及ばぬところではあるが、特に戦後、きっとあまりにも世の中が急激なテクノロジーの発達経済社会にシフトしすぎたために、何が何だか分からなくなっているのではないか。自然の一部である身体が、いじめをする側もされる側も、わけもわからず悲鳴を上げているのではないかと、愚考する。

この一文も私の好きな池澤夏樹さんが寄せておられる。
で、ふたたびラグビーの話。テクノロジーがいかに発達しようが、人間は所詮排泄する器、身体を動かす、自分を動かすしかない存在である。でないと他者に迷惑をかける。家の中に泥が入り、どかすにも片づけるにも、高齢者はともかく、基本的には自分の体を動かすしかない。基本を置き去りにした社会、身体が動かなくなったらアウトである。

石油、耕運機や車社会以前はみんな体を動かしていた。私を含めたほとんどの日本人が、体を動かすことの悦楽を忘れたのである。

便利快適社会を追求し続ける経済発展幻想社会の未来は、果てしなく災害に弱い社会であることが、立証され続けているかのようなこの9・11以降の日本列島。そう感じるのは私だけであろうか。

ラグビー日本代表が示唆している姿に私は生きるヒントを感じる。勝負は置いといて、あの汗水たらして大事なもの、誇りを守るために身体を張る。感動は銭では買えない。男の私としては困った時には足場を固めるしかほかに方法がない。足るを知る者は富む。難しくはない、当たり前のことである。原点に還る。そのことを日本代表が教えてくれたように想う。

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