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2019-10-20

今回の帰郷で考えたこと。

ふるさとから帰ってきたら季節は一気に変わり、あの夏の暑さが嘘のように去り、冬の到来を感じさせる。

私の中でも、またもや何かが微妙に微妙に変化しつつあるのを感じながら、静かな日々を過ごしている。経験したことがない災害に関するメディア報道には言葉がないので、沈黙する(が想像はする)。

初老男の心のざわめきを鎮めるのには、声出し、メルとの散歩、硯をすりシェイクスピアの文章の書記写、弓の巻き藁、それに読書が私の精神安定調節機能を果たしてくれる。

60歳を超えてからは、それ以前の自分の日々の過ごし方とは、まったく異なってきたといえるほどの変化である、と自分でも思う。事程左様に人間とは良くも悪くも変化する器である。(良き方に向かっていると思いたい)

話は変わる、父が亡くなって20年が経つがこの間何度お墓参りに帰ったことだろう。還暦を過ぎてからは、いちだんと望郷の念が深まってきて、この数年ご先祖の地に何度も足を運んだおかげで、思わぬ方々と出逢うことができ、その縁に対しての感謝は言葉では言い表せぬほどである。
書評で知った。居ずまいを正して読む。

先祖の地には、日高という姓が多いのだが、わけても日高M・Eご夫妻との出会いは、異議深い。今回も岡山に帰る前日、突然わずかな時間お邪魔したのだが、奥様とはお会いすることが叶った。(自家製のお茶をいただいた)

ご先祖の地に、お会いしたいと心から思えるご夫婦と知己ができたこと、そのことをもって、何かが吹っ切れたというか、宇納間のご先祖を詣でる私の旅は終わりを告げたかのようなおもいに今回とらわれたのである。

心と体が元気な間は、これからも帰るたびに日高ご夫妻の顔を観にゆくつもりであるが、いずれの終わり帰郷がかなわぬ事態になっても、悔いはないとの思いなのである。

このようなことを綴ると寂しき誤解を招きそうなので補足するが、有難いことに姉や兄たち日高ご夫妻はおかげさまで元気であり、幸いなことに私はすこぶる体の調子がいい。だからこそこのようなことを綴っているのだ。

うまく言えないが、なにやら新たに、ゆったりと何かまた未知のゾーンに心と体が向かいそうな(向えそうな)予感がするのである。だから私はこれからも限界まで故郷に詣でながらその予感を確かめるつもりである。

いろいろなことを整理しながら、身近な家族的なつながりの縁との関係性を深めてゆく、というか、時間をこそ大事にしたいのである。

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