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2018-11-16

夕刻、運動公園の紅葉を眺めながら想う。

夕方や早朝、週に何回かは、必ず図書館と運動公園でわずかな時間ではあれ過ごすように心かけている。これが内省的な時間を過ごすのには、ふさわしい。家から歩いて10分のところにこのように心身が安らぐ場所と空間があるということは、幸堪である。

家庭の諸事情で、遠くまで出かけての紅葉狩がかなわないが、この一週間での運動公園内の、樹木の紅葉の色の移ろいは見事である。家の近所で私は十分に、移ろう燃える秋を楽しんでいる。

早朝、出たばかりの陽光を浴びた時の 紅葉群は、またとない美しさである。日本という風土に生を受けた幸運をしみじみと感得する。若い時にはここまで感じなかったことが、いまは感じられる、老いゆく盛りというものがあるのではないかとの思いである。

だがこれもまた、身体が健康であるからゆえに愛で、耽ることが可能なのだと思い至る。どこにも出かけられず、想像力だけで、晩秋を生きておられる方も多いことだろう。深く現在の在り様を感謝する私である。

いきなりリア王のセリフが蘇る。すべてをなくし80歳になって、荒野でぽつねんと一人つぶやく、わしは今まで気づかなかったと。リアだけではない、グロスターも目をなくして気づく、眼が在ったときはよくつまずいたと。

特に今年初孫に恵まれたこと、遊声塾の発表会でリアのセルフを繰り返し読めたことに深く感謝せずにはいられない私である。
井上ひさし氏はシェイクスピアの言葉に触発された作品を書いている

くどくど書くのは控える。春に芽吹き秋には散る。だが根は一瞬たりとも休まず、次の春に備えて地中深く根を張り続ける。

さて、根のない生き物、私はどうすれば。パスカルは人間はか弱き生き物、だが考える葦であると語っている。 シェイクスピアも人間という存在の悲しさ、美しさをその多くの作品の中で、余すところなく言葉になしえている。(と感じる)

老いるにしたがって、シェイクスピアの言葉が声に出せば出すほど、深く染み入ってくるかのように感じる私がいる。人間の一生の有為転変、不可解さ、不条理、あっけなさ、残酷さ、美しさ、余すところなく、言葉にしている。すごいというほかはない。

登場人物の内面を耕し掘り進んでゆくのは、老いの身にははなはだ難しいことではあると承知しつつも、いまだ少しでも声を出しながらよじ登ってみたいと思わせる魅力が(魔力)ある。

リアは繰り返し言う、忍耐をくれと神に叫ぶ。紅葉を眺めながら、あらぬことが脳裏をかけめぐる、老いる時間は、思索のゆったり時間を与えてくれている。

昨日夕方見上げると中天に見事な半月、決まった神のいない私は、ささやかに天に祈って家路を急いだ。



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