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2018-11-03

秋日和、松岡正剛氏の本を読む。

松岡正剛さんという本の虫であり、多面的に博識で、若い時に【遊】という雑誌を立ち上げて、今に至るも枠に収まらない編集工学の大家がおられる。

夢が原リタイア後、この方の書かれている本を折々手にしている。この方も私がかってに先生のように思っている一人である。

二十一歳から数年間、今は亡き水道橋に在った旭屋書店でアルバイトをしながら、英国遊学のためにお金を貯めていた時期、【遊】という雑誌を手にしたことがある。

当時(いまもだが)の私は、書かれている方々の文章がまるでちんぷんかんであったことだけは、はっきりと覚えている。

だが、遊というタイトルの斬新さ、編集の斬新さはこれまたはっきりと記憶している。あれから半世紀近く時が流れ、ようやっと氏の書かれている書物をゆったりと読める自分がいる。

若気の至りと、ちょっと背伸びして 旭屋書店時代に買っておいた少々難解であった本が、今はとてもよく読める。
全5章松岡正剛先生の名講義、目から鱗が落ちる。

買っておいて、そして処分しないで本当に良かったと、最近つくづく思う。良書悪書、自分にとっての良き本とは、蒙を切り開くように世界の視方や、見立てに風穴を開けてくれるような方々の本である。

若い時に本を読む時期を逸し、後悔反省しきりの私であるが、気づいた時が一番若いの例えの通り、そのようなことは気にせず、気楽に気ままに良書に巡り合う醍醐味を可能な限り求めたい。

その松岡正剛氏は、白川静先生(心から尊敬する大先生)に関する著作もあられる。白川静先生も、松岡正剛氏も遊という漢字が共通して大好きであられたそうである。

シェイクスピア遊声塾を立ち上げるとき、塾に遊という感じを選んだのは、たまたまではあるにせよ、平安時代の今様、梁塵秘抄、庶民が歌った遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけんにあやかったことは確かである。

ようやくにして、遅きに失した感無きにしも非ずだが、本を読める醍醐味に心うきうきの最近の私である。近くに図書館があり足しげく通え、そのうえ隣接して体を動かせる広場 もある。

初老生活者の私にとっては、またとない環境である。知り学ぶということの有難さを噛みしめる秋日和である。



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