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2018-02-17

冬季オリンピック渦中の朝に思う。

世の中の大部は、オリンピックの熱に浮かされたような、高揚感につつまれているのかもしれないが、五十鈴川は、無縁とまではいわないが、遠くからそれを眺める感じで、金や銅の数の多さを競ったりする世界には、まるで興味がない。

国力の力を誇示し、水面下での政争の 色の濃いオリンピックには、いつのころからかとんと興味がわかなくなった。1964年、私が中学一年、12歳の時の東京オリンピックの高揚感以後、(エチオピアのアベベ選手は私を 未知の国にいざなった)さほどオリンピックには関心が持てなくなったが、選手個人の魅力は、またまったく別である。

ナチス政権下での、ベルリンオリンピック100メートル、アメリカの黒人選手と、ドイツの白人選手の人種を超え、国家を超えた友情の中での真の意味においての純粋な戦い、映像の世紀で知ったのだが、は胸に迫る。(だがあれから100年以上、世の中はどう変わったのであろうか)

なにか、いうに言えない人間同士が醸し出す、人間ならではのドラマをこそ、私が見たいものである。そういう意味では順位やメダルの数は私にはどうでもいい。

一昔前までは、知る由もなかった未知の国々の選手の人間性があらわになる、身体の表情や言葉でにじみ出てくる生命の輝き、人間たりうる素晴らしさをこそ、私が見たいものである。

今日の一文とは関係ないが今年は次々によい本に巡り合う

どのような世界にも、光と影が付きまとうのが世の中だが、その渦中にあって、純粋絶対の世界が顕現する、 その瞬間のドラマを、あまたの人が無意識に求めているのではないかと、、私もそうである。

話は変わる。にぎやかなお祭り、にぎやかな報道の渦の中で、ほとんど報道されない大事な事、また報道はされても、小さな記事だったり。新聞も半分は私にとってはどうでもいい、広告で埋め尽くされている。

私が時折、悩みながらも新聞をとっているのは、アーサービナードさんの特集 を組むとか、書評、何人かの読みたい記事を書く記者や新しい記者の存在、いま連載されている高村薫さんの小説等々、私の知らない大事なことを、教えてもらえるからである。

しかし、正直どうでもいいような、すでに画面で知った情報があまりにも多く、現代の闇に迫るような、読み応えのある、読者の知らない世界の特集連載、記者の力量を感じさせる記事があまりに少ないのが残念である。

そういう大事な記事を、見逃さないためには、こちらもなるべく新鮮な朝の時間帯に新聞に目を凝らすようにしている。

大事な、感心なことがどうにもなおざりにされ、私自身が思考停止にならなように、との懸念、怯え、懐疑が私に在るからである。

ところで、昨日の羽生結弦選手には私も感動した一人だが、羽生選手は仙台の出身、東北津波原発事故 、大震災を17歳で経験している。その時の何かが、かれの演技に無言の力を与えているように思える。




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