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2018-02-16

冬眠しながら、見えない世界に想像の羽を伸ばす。

この3月から、次女が転職し、娘たちは二人とも東京暮らしをすることになり、二人で暮らすには身に余る家で基本的に妻との二人暮らしが始まっている。

娘たちが使っていた、2階の部屋がガランとあいたので、今のところ何もない空間として、利用している 。弓の素引きをしたり、ストレッチをしたり、声を出したりと、つまりは気分転転換非日常の部屋として、特に冬は寒風を避けて、家の中を移動し、生まれて初めてともいえるたっぷり孤独時間を、私は楽しめている。

インフルエンザのおかげで、じっと家で過ごす時間が増えたのも、ありがたいことだととらえている。いい歳なのだから、あれもこれもは無理なのである。とにかく最優先は、塾生のためにも、まず何はともあれ、水曜日穴をあけないように私自身が健康であらねばならないと、以前にもまして体調維持に気を付けている。

それにはとにかく寝ることだと考え、目が覚めても8時間は床の中で、じっとしている。以前は早起きで、目が覚めたらすぐに起きて五十鈴川だよりをかいたりしていたのだが、そういうことは、とんとしなくなった。

緩やかに老いるということは、つまりはこういうことなのだ。以前は普通にできたことができなくなる。だが、これをマイナスに考えるのではなく受け入れ、あらゆることをゆっくり確実丁寧にやってゆくのである。
すっかりアーサービナードさんにはまっています、

時間はかかるが、時間はたっぷりあるのだから、急ぐ必要はどこにもないのである。ゆっくりの効用は、乙な気付きの深まりである。

ありがたや、ありがたや、とのたまう回数は若い頃の比ではない。母は平凡な日々の有難さを、いつも口にしているが(それは苦労を乗り越えてきているからこそなのだ)、お手本がそばにいるのだから、ただただあのように生活できる動く身体の持続こそが、老い楽ライフの要諦と教えられる。

老いてまで、あれもこれもと欲張る御同輩も多々いらっしゃるが、(それはそれで結構)私には縁遠い。何もない、何もしない、でも見えない不確かな心の中では何かする。

うまくは言えないが、物質的というか、実利的な世界からは(いまだ煩悩的世界をさまよいながらも)できる限り遠くに身を置きたいと考える、最近の五十鈴川である。

リア王、目をえぐられたグロスターのセリフ【目が見えた時はよくつまずいたものだ】、若いころから、つまずき続けたこの私、ようやく迎えたこのなんとも味わい深い老いゆく時間、見えない世界に耳を澄ます感覚をこそ、深めてゆきたい。



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